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2021年11月01日

おおわらわ


「おおわらわ」は、

大童、

と当てる(広辞苑)。

髪の髻(もとどり)がとけてばらばらになった姿、

で、

かぶとも落ちて大童(おほわらは)になり給ふ(平治物語)、

と、

子供のかぶろ頭、

に喩えていっている(岩波古語辞典)状態表現であったが、そこから、

なほ弓を強く引かんために、着たる鎧を脱ぎ置いて、脇い立て(わいだて 大鎧の一部。草摺と壺板(どうの右側の合わせ目に当てる防具)から成る)ばかりを大童になり(太平記)、

と、

兜を脱いで乱れ髪で働くさま、

と価値表現へと転じた。今は、その延長で、

力の限り奮闘するさま、

あるいは、

事に臨んでいっしょうけんめいに活動するさま、
夢中になって事をすること、

の意で使い、どちらかというと、

検査のすんだ荷物を大童(オオワラワ)でスーツケースに詰めこんで、

と、

ばたばたとしゃかりきになっている、

といった含意もある(精選版日本国語大辞典)。

室町末期の日葡辞書には、

Vōuaraua

を、
髪はばらばらに解け、着物はしまりなくはだけなどして、身なりの乱れている、

意とした(日本大百科全書)。

もともと、「大童」には、

長季は宇治殿若気也。仍大童まで不加首服云々(「古事談(1212‐15頃)」)、

と、

年長者で理髪をせず、加冠しないままに幼童の風を残している姿、

を意味し(仝上)、また、

元服以前の男子年少者はなにもかぶらず、頂(いただき)を露(あら)わしたままでいた。これを童(わらわ)といい、年齢的には成長していても、加冠の式を経ない者は大童(おおわらわ)と呼んで、一人前とはみなされなかった、

ともある(世界大百科事典)ので、こちらに喩えたともいえる。

「かぶろ」は、

禿、

と当て、

かむろ、

ともいい、この場合は、

子供の髪型、髪の末を切りそろえ、結ばないで垂らしておく、おかっぱのような髪型、

をいい、その場合、

きりかぶろ、

とも言う。

ただ、武士が兜をかむる場合、時代とともに変化があり、

平安時代後期頃までは、髻(もとどり)を頭上に立てたまま用いた。この場合に烏帽子は髻を包むように縮めておき、兜の天辺の穴から出してかむった、

とある。平治物語絵巻などに、

兜の頂上から黒いものが出ているのは髻を包んだ烏帽子の先端が出ている態を描いたもの、

とある(図録日本の甲冑武具事典)。それで、

天辺の穴から外へ突き出した烏帽子に包まれた髻が心棒になって兜がぐらつかない、

という(仝上)。そのため、この天辺の穴は大きく、源平盛衰記などで、

兜を傾けて突進せよ、ただしあまり傾けて天辺射さすな、

などの指示があるのは、この穴に矢を射込まれるためだという。しかし、鎌倉時代頃から、

兜をかむるときには髻を解いて乱髪にしたので、天辺の穴は小さくなり、やがて天辺の穴は換気用、神の座す場所などと意味が変わった、

とある(仝上)。「大童」の用例から見ると、『太平記』は、乱髪で兜をかぶっていたとみられるが、それ以前は、烏帽子も脱いで、まさに乱髪そのものの状態ということになる。

この、「おほわらは」の、

ワラハは、被髪(わらは)にて、童子の髪風なり、大人の被髪なれば、オホと云ふか、

とあり(大言海)、「わらは」は、

被髪、

と当て、

わわら端(ば)の略、額髪の下端などの、わわらに乱れて垂りてある状を云ふ、

とある(大言海)。その髪型から、

被髪(わらは)にてあれば名とす、

として、その髪型のものを、

童、

と当て、

童子(十歳前後)の略、

の意となったもののようである(仝上)。「わわら」は、

わわらば(散乱葉)、

と当てる、

ほつれ乱れた葉、

の意に使い、

わわく、

という動詞は、

ほつれ乱れる、

意である。類聚名義抄(11~12世紀)に、

弊、ヤブル・ツビタリ・ワワケタリ、

とある。「わわく」の「わわ」は、

ほつれる、
乱れる、

という擬態語の可能性がある。

わわくる、
わわし、

は、

騒ぐ、
やかましい、

意である。



「童」(慣用ドウ、漢音トウ、呉音スウ)は、

会意兼形声。東(トウ 心棒を突き抜けた袋、太陽が突き抜けてくる方角)はつきぬく意を含む。「里」の部分は、「東+土」。重や動の左側の部分と同じで、土(地面)つきぬくように↓型に動作や重みがること。童は「辛(鋭い刃物)+目+音符東+土」で、刃物で目を突きぬいて盲人にした男のこと、

とあり(漢字源)、「刃物々目を突きぬいて盲人にした奴隷」の意とあり、僕と同類で、「童僕」(男の奴隷や召使)と使うが、「童子」というように「わらべ」の意もある。別に、

形声。意符辛(入れ墨の針。立は省略形)と、音符重(チヨウ)→(トウ)(里は変わった形)とから成る。目の上(ひたい)に入れ墨をされた男子の罪人の意を表す。借りて「わらべ」の意に用いる、

ともあり(角川新字源)、

会意兼形声文字です(辛+目+重)。「入れ墨をする為の針」の象形と「人の目」の象形と「重い袋」の象形から、目の上に入れ墨をされ重い袋を背負わされた「どれい」を意味する「童」という漢字が成り立ちました。転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「未成年者(児童)」の意味も表すようになりました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji530.html


(「童」成り立ち https://okjiten.jp/kanji530.htmlより)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
笠間良彦『図録日本の甲冑武具事典』(柏書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:おおわらわ 大童
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2021年10月31日

行蔵


『太平記』に、

而(しか)るに今、戦功未だ立たざるに、罪責忽ちに来たる。(中略)今より後、勲業孰(たれ)が為に策(はか)らん。行蔵世に於て軽(かろ)し。綸宣儻(も)し死刑を優(ゆう)せらるれば、永く竹園(皇族)の名を削り、速やかに桑門(僧侶)の客と為らん、

と、流罪に際しての護良親王(もりよししんのう)の御書(おふみ)にある。「行蔵」は、

世に出て道を行うこと隠遁して世に出ないこと、

の意、つまり、

出処進退、

の意である(広辞苑)。

この言葉は、「行蔵は我ニ存す」http://ppnetwork.seesaa.net/article/476090186.html、松浦玲『勝海舟』http://ppnetwork.seesaa.net/article/476090186.html等々で触れたが、海舟が使った言葉として広く知られる。

海舟が嗣子小鹿を亡くす直前(明治二五年の正月末)、福沢諭吉は、ひそかに脱稿した『痩我慢の説』を、榎本武揚と勝海舟に送り付けた。二人とも反応しなかったので、二月五日付で、諭吉は、再度、

過日呈した瘦我慢の説一冊、いずれ時節を見計い世に公にするつもりだが、事実に間違いや立論の不当のところ「『無御伏蔵』御意見を承って置きたい、

と返事を催促し、尚書として、

草稿は極秘とし、二三の親友以外には見せていない、

と断った。榎本は、

昨今別而多忙に付、其中愚見可申述候、

と躱したが、海舟は、

行蔵は我ニ存す、毀誉は他人之主張、我に与らず我に関せずと存候、

と有名な返事を書き、尚書についても、

各人へ御示御座候とも毛頭異存無之候

と突き放した。

「行蔵」の出典は、『論語』述而篇、

用之則行、舎之則蔵(之を用うれば則ち行い、之を舎(す)つれ則ち蔵(かく)る)、

とされる(字源)。有名な、

暴虎馮河、

の出てくる節である。すなわち、

子謂顏淵曰、用之則行、舍之則藏。唯我與爾有是夫。子路曰、子行三軍、則誰與。子曰、暴虎馮河、死而無悔者、吾不與也。必也臨事而懼、好謀而成者也(子、顏淵に謂いて曰く、之を用うれば則ち行ない、之を舎つれば則ち藏る。唯我と爾と是有るかな。子路曰く、子、三軍を行なわば、則ち誰と與(とも)にかせん。子曰く、暴虎馮河し、死して悔いなき者は、吾與にせざる也。必ずや事に臨みて事懼(おそ)れ、謀を好みて成さん者也)、

と。「暴虎馮河」とは、

何も武器を持たずに虎と組み討ちをし、大河を歩いて渡る、無謀な冒険の典型、

の意(貝塚茂樹)である。

「暴」は「搏」に同じで、打つ、なぐる意。「馮」は川などを徒歩で渡る意、

とある(新明解四字熟語辞典)。この「河」は、元来は中国の黄河をさす。要は、

血気にはやって向こう見ずなことをすること、

である。ぼくの中では、西郷の、

命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり、

という言葉が重なる。勿論、いい意味でではない。ある意味、鳥羽伏見も、博打のようなものだ。かろうじて(江戸焼き討ちという)テロの論理が、常識人の幕府側を乗せた。

それはさておき、「行蔵」は、ときどき使われるが、頻度は多くなく、用例に出るのは、上記『太平記』と、

去来不失候。可謂識行蔵(経国集(827)・詠燕)、

である(精選版日本国語大辞典)。存外に、

重い含意、

と見た。たとえば、『太平記』に、

三朝礼儀の明堂、云(ここ)に捨てて、野干(やかん 狐)尸(かばね)を争ふ地と為り、八宗論談の梵席、永く絶えて、鬼神舌を暢ぶる声に替へたり、笑うてかの行蔵を問ふに、何か似たる(所)ぞ。譬へば、猶調達(ちょうだつ 釈迦の従兄弟)が衆を萃(あつ)めて、提羅(だいら 比丘、比丘尼)が供(く)を貪(むさぼ)って利門(りもん 利欲に結びつく道)を開きしが如し、

とある。この「行蔵」は、「行い」だが、ただの「ふるまい」ではなく、「仏道を修める」とか「仏事を行う」という意で使われている。



「行」(漢音コウ。ゴウ、呉音ギョウ、唐音アン)は、

象形。十字路を描いたもので、みち、みちをいく、動いて動作する(おこなう)などの意を表す。また、直線をなして進むことから、行列の意ともなる、

とあり(漢字源)、別に、

四方に道が延びる十字路の形にかたどり、人通りの多い道の意を表す。ひいて「ゆく」、転じて「おこなう」意に用いる、

ともある(角川新字源)。「歩行」「走行」「行為」等々、「行は止の反、歩き進む」(字源)意であり、

行有余力則以學文(行ひて余力有らば、則ち以て文を学ぶ)、

であるが(論語)、「徳行」「修行」「勤行」等々のように、和語の「しわざ」「ふるまい」といった含意の、

心にあるを徳と言ひ、之を施すを行といふ

と、単なる行いではない意味を「行」に込めることがある(字源)。


(「行」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%A1%8Cより)

「倉」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482616330.htmlで触れたように、「蔵(藏)」(漢音ゾウ、呉音ソウ)は

形声。艸は収蔵する作物を示す。臧(ソウ)は「臣+戈(ほこ)+音符爿(ソウ・ショウ)」からなり、武器をもった壮士ふうの臣下。藏は「艸+音符臧」で、臧の原義とは関係がない、

とある(漢字源)。「秘蔵」とか「収蔵」とか「珍蔵」という言葉があり、「物を納めて蓄える」という意味が強いが、特に、

見えぬようにくらへかくしいるる、

意(字源)とあり、世の中から「隠れる」含意がある。別に、

形声文字です(艸+臧)。「並び生えた草」の象形と「矛(ほこ)の象形としっかり見開いた目の象形」(「倉(ソウ)」に通じ(同じ読みを持つ「倉」と同じ意味を持つようになって)、「かくしてしまう」の意味)から、「かくす・かくしてしまう場所」、「くら」を意味する「蔵」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji965.html


(「蔵」 https://kakijun.jp/page/1522200.htmlより)

参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
兵藤裕己校注『太平記』(岩波文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:行蔵

2021年10月30日

あごえ


「あごえ」は、

けずめ(蹴爪)、

の古名である。ただ、

あごえ(岩波古語辞典・広辞苑)、
あこえ(大言海)、

と、訓みに清濁の差がある。

大(おほ)きなる雄鶏を以て、呼びて己が鶏と為て、鈴、金の距(アコエ)を着けて、競ひて闘は令む(雄略紀)、

と、

距、

と当てる(広辞苑)。奈良時代末の成立の『八十巻華厳経音義』(新訳華厳経音義私記)には、

所拒、安後延(あごえ)、

とある(岩波古語辞典)が、平安後期の漢和辞書『字鏡』(じきょう)には、

距、足角也、阿古江、

和名類聚抄(平安中期)には、

距、鶏雉脛、有岐(また)也、阿古江、

類聚名義抄(11~12世紀)には、

距、アコエ、コユ、

とある(大言海)。

アは足、コエは蹴るの意のコユの名詞形、

とあり(岩波古語辞典・大言海)、

足掻(あしかき)、あがく、

同趣の転訛とみられる(大言海)。「あ」は、

足、

で、

足(あ)の音せず行かむ駒かもが葛飾(かつしか)の真間(まま)の継橋(つぎはし)やまず通はむ(万葉集)、

と使われるが、

足占(あうら)、足結(あゆい)など、多く下に他の語を伴って複合語をつくる、

とある。

足掻く、

などもそれだろう。「こゆ」は、

蹴、

と当て、

越ゆと同根、足の先を上げるのが原義、

とある(大言海)、「越ゆ」は、

コユ(蹴)と同根、目的物との間にある障害物をまたいで、一気に通り過ぎる意、

ともある(岩波古語辞典)が、類聚名義抄(11~12世紀)には、

蹴、化(け)ル、クユ、コユ、

とあり(仝上)、

蹴(く)ゆ、蹴(け)るに同じ、

とある(大言海)。「くゆ(蹴)」は、

けるの古語、

とあり、

くう(蹴)の転(移(うつ)る、ゆつる)、又、転じて、コユとなる(黄金(こがね)、くがね。いづく、いずこ)、

とある(仝上)。「くう(蹴)」は、

クユル、コユルと転じ、口語調に、クヱル、クエルとなり、また約まりて、ケルとなる(大言海)、
クヱル(蹴)の語は、クヱ[k (uw)e]の縮約でける(蹴る)という下一段動詞になった(日本語の語源)、

とある(仝上)。古形、

くゆ、

が、

け(蹴)、

に転じたようだが、

ケ(蹴)の古形コユとクユとが平安時代に混交したものか、

とある(岩波古語辞典)。つまり、

(くう→)くゆ、こゆ→くゆる、こゆる→くゑる、くえる→ける、

といった転訛をしたことになるが、

帯刀どもして蹴させやましと思ひしかと(大鏡)、
殿上人、鞠けさせて御覧ずる(栄花物語)、

などと、

古形くゆ(蹴)の転(岩波古語辞典)、
古音くゑの約(大言海)、

である、

け(蹴)、

で使われる状態があり、「くゆ」からの転訛のどこかで、

く(ゆ)→け、

の転訛があり、「ける(蹴)」へと変化ししやすかったことになる。

「けづめ」は、

蹴爪、
距、

と当てるが、

キジやにわとりなどの脚のやや上部に後ろ向きに生えた鋭い突起、

であり、

ウシ・ウマなどの脚の後方にある小さい趾(あしゆび)で、地にふれないもの、

をも指す(広辞苑)。鳥の場合、

鳥類の趾では、第5趾が完全に退化しており、基本は4本の趾を持つ。第1趾が後方を向く形が多く、これは木の枝を掴む際に好都合な形状をしている、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%BE_%28%E9%B3%A5%E9%A1%9E%29、第1趾指す。



「距」(漢音キョ、呉音ゴ)は、

会意兼形声。巨(キョ)は、I型の定木にとってのついた姿を描いた象形文字で、上下の幅がIの間隔だけあいていること。距は「足+音符巨」で、他の四本の指との間がへだたったけづめ。転じて、両端の間がひろくあいていること、

とある(漢字源)。「距爪(キョソウ)」と、距の意であり、「距離」と隔ての意である。


(「距」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1143.htmlより)

別に、

形声文字です(足+巨)。「人の胴体の象形と立ち止まる足の象形」(「足」の意味)と「とってのあるさしがね」の象形(「さしがね、大きい」の意味だが、ここでは、「去(キョ)」に通じ(同じ読みを持つ「去」と同じ意味を持つようになって)、「しりぞける」の意味)から、「へだてる」、「距離を置く」を意味する「距」という漢字が成り立ちました、

とする解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji1143.html

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:あごえ

2021年10月29日

千鳥


「千鳥」は、その字の通り、

朝狩(あさかり)に五百(いほ)つ鳥立て夕狩に千鳥踏み立て許すことなく追ふごとに(万葉集)、

と、

多くの鳥、

の意である(岩波古語辞典・広辞苑)が、この場合、「千」は、

郡飛する意、

となる(大言海)。別に、

チドリ目チドリ科の総称、

の意があり、この場合、

鵆、
鴴、

とも当てる。



この「千鳥」の由来は、

数多く群れを成して飛ぶからか、また、鳴き声から(広辞苑)、
交鳥(チガエドリ)の義、飛ぶ状より云ふ、或いは云ふ、鳴く声を名とす。鵆は鴴の異体なり、但し(中国南北朝期(439~589)の漢字字典)『玉篇』には、「鵆、荒鳥」とあり、チドリは國訓(大言海)、
鳴き声から(日本語源=賀茂百樹・音幻論=幸田露伴)、
チ(擬声、チョチョ・チンチン)+鳥。チチと鳴く鳥の意(日本語源広辞典)、

と、鳴き声とする説が多い。他に、

チヂドリ(千々鳥)の義(日本語原学=林甕臣)、
チガヘドリ(交鳥・差鳥)の義(名言通)、

もある。「チガヘ」というのは、「千鳥足」http://ppnetwork.seesaa.net/article/484098057.html?1635363915で触れたように、

路を行くに、右へ片寄り、又、左へ片寄りて歩むこと。又、歩むに両脚を左右に打ちちがへて行く、

こと(大言海)からきているが、

鳴き声をチと聞いて、

しほ山のさしでの磯に住む千鳥君がみ代をばやちよとぞ鳴く(古今集)、

のように、祝賀の意を持たせることがある。後世には、

ちりちり(虎明本狂言「千鳥」)、
チンチン(松の葉・ちんちんぶし)、

と聞きなす、

とある(日本語源大辞典)。「千鳥」の由来は、鳴き声でいいようであるが、今日、僕には、さえずりは、

チ、チ、チ、

と聞こえ。地鳴きは、

ピウ ピウ、

と聞こえるhttps://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1523.html


(「鵆」 https://kakijun.jp/page/E9FB200.htmlより)

古くからなじみの鳥らしく、

淡海の海(み)夕波千鳥 汝(な)が鳴けば心もしのに古(いにしへ)思ほゆ(柿本人麻呂)、
思ひかね妹(いも)がり行けば冬の夜の川風寒み千鳥鳴くなり(紀貫之)、

等々と歌に詠まれてきたが、

和柄や家紋としても、意匠化されてきた。


(千鳥柄 https://iwami-hana.com/chidori-255より)

波に千鳥、

は氷屋の暖簾にまだ見かけるし、


(かき氷屋の「波に千鳥」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%89%E3%83%AA%E7%A7%91より)

着物の柄にも、例えば、

千鳥格子、

というのがある。



「鵆」は、「ちどり」に当てた、国字とある(字源)。「鴴」(コウ)は、

すずめ(荒鳥)、

の意である。これを、

ちどり、

と訓ませ、

鵆、

とつくったものらしい。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2021年10月28日

千鳥足


「千鳥足」は、普通は、

左右の足の踏みどころを違えて歩く千鳥ような足つき、

に喩えて、

酒に酔った人の足取り、

の意で使う(広辞苑・デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)とあるが、

千鳥は、前三指のみなれば、両足を打ち交へて走り、歩みの乱るるものなれば云ふとぞ、

とあり(大言海)、

路を行くに、右へ片寄り、又、左へ片寄りて歩むこと。又、歩むに両脚を左右に打ちちがへて行くこと、

とある(仝上)。



現に確かめた人は、

基本的にジグザグに歩くの……ですが、……ジグザグにも歩くし、ときどき左右の足を交差させても歩いています。特に、ゆっくり歩くときや方向を変えるときに交差しています、

とありhttps://blog.goo.ne.jp/fagus06/e/d978fc891dd2f9f928eb12167bd1e857

足を打ち交えて歩く、
意と、
歩み方がジグザグ、

の二つの意味があるようである(仝上)。『太平記』に、

この比(ころ)、殊に時を得たる者どもよと覚しき武士の、太き逞しき馬に千鳥足を踏ませ、(中略)五、六十騎が程、野遊びして帰りける、

とあるのは、注(兵藤裕己校注『太平記』)に、

千鳥のように足を交差させた乱れた足並み、

とあり、

足を打ち交えて歩く、

のを、馬の足並みの乱れ、と解釈している。



あるいは、

敵五十騎ばかり、われ先に討たんと懸かりけるに、河村(弾正)、千鳥足を踏んで散々に戦ふ(太平記)、

とあるのは、注(兵藤裕己校注『太平記』)に、

千鳥のように細かく足を移動して、

とあるように、細かな足さばきを指すようである。この場合は、乱れというよりも、右に左に細かくかわしながら、と、ただ一人で(徒で)騎乗の多くの敵に対応していると見える。

千鳥掛け、

あるいは、

千鳥縢(かがり)、

という言葉があるが、

紐や糸を交互に斜めに交差させてかがる、

意である。その意味では、「じぐざぐ」よりは「足を打ち交える」の意ではないか、という気がする。もっとも、

しほがれの難波の浦のちとりあし蹈み違へたる路も恥づかし(「新撰六帖(1244頃)」)、

という使い方をみると、「踏み違へ」たのには、ジグザグ歩きもあり得る気がして、どちらとも定めがたい。

「千鳥足」には、もうひとつ、

馬の足並みがはらはらと千鳥の羽音のようであること、

の意がある(広辞苑)が、別に、

馬の足並みが千鳥の飛ぶ姿のようであること、

の意もあり(デジタル大辞泉)、ここでも、

馬の足並みが揃足よりはげしく千鳥の飛ぶ姿のようであること。また、その歩き方。一説に、その馬の足並みの音が千鳥の飛ぶ羽音に似ているところからという(五武器談)、

と(精選版日本国語大辞典)、

羽音、

飛ぶ姿、

の二説がある。しかし、必ず引かれる用例は、入洛する護良(もりよし)親王の行列の、

(護良親王は)侍十一人に諸口を押させ、千鳥足を踏ませて、小路を狭しと歩ませける、

という描写である(太平記)。注には、

馬を悠然と歩ませるさま、

とある(兵藤裕己校注『太平記』)。しかし、

馬の脚並みの、はらはらとして、千鳥の飛ぶ羽音の如くなるを云ふ(五武器談・大言海)、
と、
馬の脚並みの、ばらばらと、千鳥が飛ぶ羽音のように乱れる(岩波古語辞典)、

と、同じ羽音説でも、微妙に含意が異なる。用例が、どの辞書にも、『太平記』の上記を引くところを見ると、他にはあまり用例がないのかもしれない。ただ、護良親王が、馬をばたつかせているとは思えない描写なので、

馬を悠然と歩ませるさま、

の意が適しているとは思うが、しかし、それを、

千鳥足、

というには、千鳥の、

羽音、

の激しい足並み音なのか、

飛ぶ姿、

の群がりゆく姿なのか、いずれとも決めがたいが、

荒々しさ、

を喩えているのには変わりがないように思う。同じ『太平記』に、

千鳥足を踏ませ、

という同じフレーズが、あるときは堂々になり、別には乱れになる、という両義なのは、文脈もあるが、片や、

武士の野遊びの帰り、

片や、

護良親王の入洛の行軍、

との差なのかもしれない。荒々しい馬の脚並みが、片方では、乱れに見え、他方では、鼻息荒く堂々と乗りこなすさまに見える、というような。



その姿で、

ハクサンチドリ、

という、花の付き方が千鳥の飛ぶ姿に似ていることから名付けられた花がある。



これは明らかに飛ぶ姿に準えているのだが、護良親王のくだりの「千鳥足」は、あるいは、堂々と馬を御している、

人馬一体の姿、

を言っているのかもしれない。なお、歌舞伎の立回りに、

千鳥、

というのがあるが、これは、

主役に一人一人斬ってかかり、左右に代わる代わる入れ替わるもの、

とあり(江戸語大辞典)、「ジグザグ」ではなく「左右に打ち交(ちが)え」の意である。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

2021年10月27日

宇治の橋姫


「橋姫」は、

橋に祀られていた女性の神、

で(日本伝奇伝説大辞典)、

その信仰から、

橋姫伝説が生まれた、

とある(仝上)。

思案橋(橋を渡るべきか戻るべきか思いあぐねたとされる)、
細語(ささやき)橋(その上に立つとささやき声が聞こえる)、
面影橋(この世のものではない存在が、見え隠れする)、
姿不見(すがたみず)橋(声はすれども姿が見えない)、

等々と言われる伝説の橋には、

橋姫、

が祀られている(日本昔話事典)。「橋」も「峠」と同じく、

信仰の境界であり、ここに外からの災厄を防ぐために、祀られたものらしい(仝上)。主に、

古くからある大きな橋では、橋姫が外敵の侵入を防ぐ橋の守護神として、

祀られているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A7%AB。「橋姫」信仰は、広く、

水神信仰、

の一つと考えられ、

外敵を防ぐため、橋のたもとに男女二神を祀ったのがその初めではないか、

とある(日本伝奇伝説大辞典)。つまり、

境の神、

としての、

道祖神、
塞(さえ)の神、

の性格を持ち、

避けて通れぬ橋のたもとに橋姫を祀り、敵対者の侵入を阻止し、自分たちの安全を祈った、

ものとみられる(仝上)。


(「橋姫」 竜閑斎画『狂歌百物語』より https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A7%ABより)


ただ、水神は女性の神であるので、安産や小児の安全を祈る信仰や習俗と関係し、橋姫の信仰も、

母子神信仰、

の形をとり、橋姫が乳児を抱いてやってきて、たまたま通りかかった者にその乳児を抱かせるという、

産女(うぶめ)伝説、

が各地に残り(仝上)、また、橋姫が、

遠くの橋や沼の神と姉妹であり、旅の者に托して音信を交わしたり、使いの者が危険な目に遭ったり、財宝を授かったり、

という話もあり、また橋姫は嫉妬深いことも、顕著な特徴で、

妬婦伝説、

とつながり(仝上)、

女性の嫉妬に関係した謡を詠うことを禁じたり、婚礼の行列が渡ってはいけない、

という橋も各地にあり、禁を破ると

不幸を招き婚姻が破綻する、

という。これは、

土地の神は一般にほかの土地の噂を嫌うという性格や、土地の信者の競争心などが、橋姫が女神であるために嫉妬深いという説に転化した、

とする説(仝上)と、

「愛らしい」を意味する古語の「愛(は)し」が「橋」に通じ、愛人のことを「愛し姫(はしひめ)」といったことに由来する、

とする説https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A7%ABなどがある。


(「橋姫」 「社は山城国宇治橋にあり。橋姫はかほかたちいたりて醜し。故に配偶。ひとりやもめなることをうらみ、人の縁辺を妬み給ふと云」 鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より)

橋姫伝説、

で知られているのは、

宇治の橋姫伝説、

で、

たまひめ(玉姫)、

とも呼ばれ(大言海)、「宇治の橋姫」は、

嵯峨天皇の代、嫉妬のために宇治川に身を沈めて鬼となり、京中の男女を食い殺した、

という「鬼」と化した橋姫と、

橋を守るという女神、宇治橋の橋姫神社の女神とされ、男神との恋愛説話がある、

という「女神」としての橋姫の、二様の意味が載る(広辞苑)が、「橋姫」は、

多様な伝承と側面、

を持ち、その主なものが、

源綱(渡辺綱)が一条戻橋で遭遇し斬った「嫉妬の鬼」、
宇治橋そばの橋姫神社に祭られている「橋の守り神」、

の二つになるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A7%AB

多く、和歌では、

さむしろに衣かたしき今宵もやわれを待つらん宇治の橋姫(古今和歌集)、
千早ぶる宇治の橋守汝をしそあはれとは思ふ年を経ぬれば(仝上)、
あじろ木にいさよふ波の音ふけてひとりや寝ぬる宇治の橋姫(新古今和歌集)、
はしひめのかたし袖もかたしかで思はざりけりものをこそ思へ(實方集)、
橋姫の朝餉のそでやまがふらむかすみも白き宇治の阿波(新続古今集)、
橋姫の心をくみて高瀬さす棹(さお)のしづくに袖ぞ濡れける(源氏物語)、

等々と詠われており(大言海)、いまでははっきり分からないが、

背後に橋姫に関する伝承が存在した、

ことをうかがわせ(日本伝奇伝説大辞典)、その記載の最古は、平安末期の歌学書『奥義抄』の「さむしろに」の歌の注釈として見え、物語としては室町時代の『御伽草子絵巻』に載り、概略こんな話である。

昔、都を離れ、難波のあたりに住む中将がいた。彼には二人の妻がいて、本妻を宇治の橋姫といい、つわりに苦しんでいた。七色のわかめがほしいと頼むので、海上に漕ぎ出して探し求めるが見つかるはずもなく、日が暮れてきた。で仕方なく、笛を取り出し、青海波という曲を吹くと、急に波風が強くなり、夢路を辿るような気分になった。
三年後、橋姫は行方不明の夫を探して海辺へ行き、灯のともる一軒の家を見つけて案内を乞うと、一人の老尼がいた。その老婆との話の中で、橋姫は、夫の中将が龍王にとらえられてその婿になっていることや、老婆がその龍王の草を預かる者であることを知る。老婆は、中将が今夜この家に来るはずであると告げ、また火にかけた鍋を決して見るなと言いおいて出ていく。橋姫はその戒めを守って待っていると、老婆が帰ってきて、今あなたの夫がくるから、ここからのぞいて見よという。その通りに、ひどくやつれた夫が、みるめ・かぐはなという化け物と一緒にやってきた。中将は、化け物たちの進める盃もとらず、「さむしろに衣かたしき今宵もや我をまつらむ宇治の橋姫」と繰り返し歌う。化け物たちが立ち去った後、二人は久しぶりに対面を果たすが、中将は我身の不幸を嘆き、再会を約して別れていった。夜が明けたので、老婆は、橋姫に道を教えて帰す。
橋姫は、もう一人の妻にこのことを語ると、この妻も老婆の家にやってくるが、見てはならぬという鍋の中をのぞいてしまい、また現れた夫が「さむしろに」と橋姫の歌を詠うので、嫉妬して門の外へ飛び出すと、今まであった家も人もたちまち消えてしまった。このことを聞いた橋姫は、海辺の家のあったところへ行ってみるが、その跡形もなく、秘密を話したことを後悔した、

と(仝上)。『奥義抄』で、「さむしろに」の歌の注釈としてこの話を載せたけれども、物語の中で「さむしろに」の歌が使われているところを見ると、逆に、この歌に付会したものとも見える。もともとは、

男が竜神に愛でられて婿になったが、竜宮の火を忌み、海辺の老婆の家に食事にやってきて、そこで橋姫と会い、物語したあと泣く泣く別れるが、やがて橋姫と再び結ばれる、

という話が(毘沙門堂蔵『古今集註』に引かれる)『山城国風土記』にあり、

本来、宇治という漁業の地に、水死した漁民の妻の悲しみ、世人の妻への同情が橋姫信仰と結びついてうまれたもの、

という説があり(仝上)、

原型は、男女の情愛の美しさを主題とした、この地方の橋姫伝説をもとに作られたもの、

ということになる。

もうひとつの「橋姫」伝説である、

源綱(渡辺綱)が一条戻橋で遭遇し斬った「嫉妬の鬼」、

の話は、『平家物語』の読み本系異本の『源平盛衰記』に載り、

嵯峨天皇の御宇に、或る公卿の娘、余りに嫉妬深うして、貴船の社に詣でて七日籠りて申す様、「帰命頂礼貴船大明神、願はくは七日籠もりたる験には、我を生きながら鬼神に成してたび給へ。妬しと思ひつる女取り殺さん」とぞ祈りける。明神、哀れとや覚しけん、「誠に申す所不便なり。実に鬼になりたくば、姿を改めて宇治の河瀬に行きて三七日漬れ」と示現あり。女房悦びて都に帰り、人なき処にたて籠りて、長なる髪をば五つに分け五つの角にぞ造りける。顔には朱を指し、身には丹を塗り、鉄輪を戴きて三つの足には松を燃やし、続松を拵へて両方に火を付けて口にくはへ、夜更け人定りて後、大和大路へ走り出で、南を指して行きければ、頭より五つの火燃え上り、眉太く、鉄漿黒(かねぐろ)にて、面赤く身も赤ければ、さながら鬼形に異ならずこれを見る人肝魂を失ひ、倒れ臥し、死なずといふ事なかりけり。斯の如くして宇治の河瀬に行きて、三七日漬りければ、貴船の社の計らひにて、生きながら鬼となりぬ。宇治の橋姫とはこれなるべし、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A7%AB。で女は、

さて妬しと思ふ女、そのゆかり、我をすさむ男の親類境界、上下をも撰ばず、男女をも嫌はず、思ふ様にぞ取り失ふ。男を取らんとては女に変じ、女を取らんとては男に変じて人を取る。京中の貴賤、申の時より下になりぬれば、人をも入れず、出づる事もなし。門を閉ぢてぞ侍りける、

という状態となり、渡辺綱が、所用の帰路、

一条堀川の戻橋を渡りける時、東の爪に齢二十余りと見えたる女の、膚は雪の如くにて、誠に姿幽なりけるが、紅梅の打着に守懸け、佩帯(はいたい)の袖に経持ちて、人も具せず、只独り南へ向いてぞ行きける。綱は橋の西の爪を過ぎけるを、はたはたと叩きつつ、「やや、何地へおはする人ぞ。我らは五条わたりに侍り、頻りに夜深けて怖し。送りて給ひなんや」と馴々しげに申しければ、綱は急ぎ馬より飛び下り、「御馬に召され侯へ」と言ひければ、「悦しくこそ」と言ふ間に、綱は近く寄つて女房をかき抱きて馬に打乗らせて堀川の東の爪を南の方へ行きけるに、正親町へ今一二段が程打ちも出でぬ所にて、この女房後へ見向きて申しけるは、「誠には五条わたりにはさしたる用も侯はず。我が住所(すみか)は都の外にて侯ふなり。それ迄送りて給ひなんや」と申しければ、「承り侯ひぬ。何く迄も御座所へ送り進らせ侯ふべし」と言ふを聞きて、やがて厳しかりし姿を変へて、怖しげなる鬼になりて、「いざ、我が行く処は愛宕山ぞ」と言ふままに、綱がもとどりを掴みて提げて、乾の方へぞ飛び行きける。綱は少しも騒がず件の鬚切をさつと抜き、空様に鬼が手をふつと切る。綱は北野の社の廻廊の星の上にどうと落つ。鬼は手を切られながら愛宕へぞ飛び行く、

となる(仝上)。その腕は、

雪の貌に引替へて、黒き事限りなし。白毛隙なく生ひ繁り銀の針を立てたるが如くなり、

という。以後この「鬚切」は、「鬼丸(おにまる)」と呼ばれるようになったとされる(仝上)。綱の時代は嵯峨天皇の御世の200年近く後になる。退治したのが、200年後ということか。

この話の「戻橋」を羅生門に代えたのが、能の「羅生門」になる(日本伝奇伝説大辞典)。「橋姫」の呪いの儀式が、

丑の刻参り、

のルーツとされる、らしい(仝上)。

参考文献;
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

2021年10月26日

苛斂誅求


「苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)」は、

租税などをきびしく取り立てる、

意であり(広辞苑)、

苛酷(むご)く収斂(とりた)て、厳しく責め徴(はた)る、

意となる(大言海)が、少し広げて、

むごい取り立て、

の意でも使う(精選版日本国語大辞典)。

苛求、
苛斂、
誅求、

とも言う。

「苛」はむごい、また、責め立てる意。「斂」はおさめる、集める意。「誅」は責める意、

とある(新明解四字熟語辞典)。

左傳(戦国時代)・襄公三十一年に、

誅求無厭、

とあり、旧唐書(945年)・穆宗紀に、

苛斂剥下、人皆咎之、

とあり、新五代史(1053年)・袁象先傳に、

誅斂其民、積貨千万、

とある(大言海・広辞苑)。

苛税、

は、

厳しい取り立て、

だが、

苛求、

というと、

厳しく求める、

意となる(字源)。

ただ、漢和辞書には、

苛斂誅求、

は見当たらず、

「苛斂誅求」と二つ重ねる例は、日本では二〇世紀初めから現れています、

と(四字熟語を知る辞典)、新しい用例のようである。

「苛斂誅求」の類義語に、

頭会箕斂(とうかいきれん)、

がある。「頭会」は、

人数を数える、

意、「箕斂」は、

農具の箕ですくうこと、

で、

人数を数えて、箕ですくうように手当たり次第にかき集める、

という意味になるhttps://yoji.jitenon.jp/yojij/4807.html

また、過酷な税金という意味では、

苛捐酷税(かえんこくぜい)、

という言葉がある(四字熟語を知る辞典)。



「苛」(漢音カ、呉音ガ)は、

会意兼形声。可は「¬印+口」からなり、¬型に曲折してきつい摩擦をおこす、のどをかすらせるなどの意。苛は「艸+音符可」で、のどをひりひりさせる植物。転じてきつい摩擦や刺激を与える行為のこと、

とあり(漢字源)、「からし」の意で、「ひりひりする」「きつい」などの意があり、「苛刻」「苛政」「苛責(呵責)」などと使われる。別に、

形声。艸と、音符可(カ)とから成る。小さい草の意を表す。転じて、せめる、むごい意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意形声。「艸」+音符「可」、「可」は直角に曲げ摩擦を起させるの意、摩擦を起しひりひりするからい草が原義、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8B%9B

会意兼形声文字です(艸+可)。「並び生えた草」の象形と「口と口の奥の象形」(口の奥から大きな声を出すさまから「良い」の意味だが、ここでは、「呵(カ)」に通じ(同じ読みを持つ「呵」と同じ意味を持つようになって)、「大声で責める」の意味)から、「大声で責める」、「厳しくする」を意味する「苛」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2098.html


(「苛」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji2098.htmlより)

「斂」(レン)は、

会意兼形声。僉(セン ケン)は、多くの物を壺に寄せ集めたさまを象形文字。のちに「集めるしるし+二つの口+二人の人」の会意文字で示し、寄せ集めることを示す。のち、「みな」の意の副詞に転用された。斂は「攴(動詞の記号)+音符僉」で、引き絞ってあつめること、

とあり(漢字源)、「収斂」というように使う。




(「斂」 金文・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%96%82より)

「誅」(チュウ)は、

会意兼形声。「言+音符朱(ばっさりと木の株を切る)」で、相手の罪を言明してばっさりと切り殺すこと、

とある(漢字源)。「罪不容誅」(罪誅を容されず)、「誅伐」「筆誅」等々、死刑や、滅ぼす、責めるという意である。
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(「誅」 https://kakijun.jp/page/E66E200.htmlより)

別に、

会意形声、「言」+音符「朱」。「朱」はまさかりで木を伐ることを象った指事文字で、「言」を合わせて罪を「せめる」こと、罪をせめて「ころす」こと、

とある速乾性に優れ、常にサラッとした肌触りが得られます。 RSタイチ(アールエスタイチ) NXU915 TAICHI インナースーツ BLACK XL/54。この方が、意味がクリアな気がする。

「求」(漢音キュウ、呉音グ)は、

象形。求の原字は、頭や手足のついた動物の毛皮を描いたもの。毛皮はからだに引き締めるようにしてまといつけるので、離れたり散ったりしないように、ぐいと引き締めること。裘(キュウ 毛皮)はその原義を残した言葉、

とある(漢字源。)「もとめる」「散らないように引き締める」意で、「求心」「追求」「探求」等々と使う。別に、

象形。かわごろもを腰で締める様子、又は丸めて運ぶこと。「裘」の原字。皮衣をぎゅっとまとめる。「まとめる」ことから、自分の下に引き寄せるなどの意が生じた、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%B1%82のが、よく意図がわかる。



別に、

象形文字です。「裂いた毛皮」の象形から「皮衣(レザージャケット)」の意味を表しましたが、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「もとめる」を意味する「求」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji711.html


(「求」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%B1%82より)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

2021年10月25日

そぞろ


「そぞろ」は、

漫ろ、

と当てる(広辞苑)。あるいは、

不覚、

とも当てる(大言海)。その意味の幅は広い。例えば、『太平記』で、ランダムに引っ張っても、

城より打ち出でて、そぞろなる敵ども皆城の中へぞ引き入れける、

では「無関係な」という意味、

そぞろに思ひ沈ませ給ひける御心の遣る方なしに、

は、「何となく」といった意味、

これ程の打ちこみの軍(いくさ)に、そぞろなる前懸けして討死したりとても、さしたる高名ともいはるまじ、

は、「意味のない」といった意味、

そぞろなる長活きして、武運の傾(かたぶ)かんを見んも、老後の恨み、臨終の障(さわ)りともなりぬべければ、

は、「漫然と」といった意味等々といった具合で、意味のつながりが見えにくい。

「そぞろ」は、

すずろの母音交替形、

とあり(岩波古語辞典)、「すずろ」は、やはり、

漫ろ、

と当て、

これという確かな根拠も原因も関係ない、とらえ所のない状態、人の気分や物事の事情にもいう、

とある(仝上)。だから、まずは、

男すずろに陸奥(みち)の国まで惑ひいにけり(伊勢物語)、

と、

何ということもなく、
漫然と、

という意味であり、それとつながって、

人の妻(め)のなる物怨(ゑん)じしてかくれたるを(枕草子)、

と、

これという根拠もなく、
理由もなく、

という意味で使われるのは意味のつながりがある。そこから敷衍すれば、

すずろなる眷属(けぞう)の人をさへ惑は給ひて(源氏物語)、
すずろなる者に、何か多く賜(た)ばむ(大和物語)、

と、

無関係な、
関りのない、

意につながるのも無理ではない。また、「漫然と」の意味と繋がって、

不覚(すずろ)に眼を転(めぐ)らす(遊仙窟鎌倉期点)、

と、

無意識に、
思わず、

という意味もあり得る。そうした、「漫然と」とか「無関係に」という意味からすれば、

うたてある主(ぬし)のみもとに仕うまつりて、すずろなる死(しに)をすべかめるかな(竹取物語)、

と、

思いがけない、
不意に、

という意味も外延につながってくる(岩波古語辞典)。

衣(きぬ)などにすずろなる名どもを付けけむ、いとあやし(枕草子)、

と、

興趣のない、
面白くない、

意(デジタル大辞泉)は、「関係ない」という意味と関わるし、このほかの、

すずろなる酒のみは衛府司のするわざなりけり(宇津保物語)、

の、

あるべき程度を超えているさま、
むやみ、
やたら、

の意や、

すずろに言ひ散らすは、さばかりの才にはあらぬにやと聞こえ(徒然草)、

思慮のない、
軽率、

の意で使うのは、ある意味で、

意識的でない、
自覚的でない、

という広く括った意味の外延の中に入ると思える。その意味で、「そぞろ」の、

まことに盗人(ぬすびと)もなければ、障子のそぞろに倒れかかりたりけるなりけりと(今昔物語)、

なんということなく、

の意や、

一目見しより恋となり、明け暮れ思ひわづらひて、心もそぞろになり果てて(猿源氏草紙)、

と、

そわそわする、
心ここにない、

意で、その意味では、「無意識」という意味の範囲に入ってくる(岩波古語辞典・広辞苑)。因みに、

漫心(すずろこごろ・そぞろごころ)、

というと、

そわそわと落ち着かない、

意となる(仝上)。

「すずろ」と「そぞろ」は、いずれも上代にはなく、

中古の仮名文では、「すずろ」が「そぞろ」より多く用いられている、

と、平安期に登場した言葉のようである。「すずろ」、その転訛の「そぞろ」の、

すす、
そそ、

については、

スズロは、スズログの意、

「すずろぐ」は、

漫、
不覚、

と当て、

ススは進むの語幹、ロクは動揺の義、進むに通ず、かびろく同趣、

とする(大言海)のが一つの説である。「かびろく」については、

かひろく、

ともあり(岩波古語辞典)、

転、
𦨖、

と当て、

ゆらゆらと揺れ動いて安定を欠く、

意だが(岩波古語辞典)、

カヒロは擬態語。擬態語に接尾語クを添えて動詞化する例に、さわく・とよく・とどろくなどがある(仝上)、

に対して、

揺、
蕩、

と当て、

カビは、頭(カブ)の転(粒、つび、つぶ)、ロクは動揺する意(おどろく、すずろく)。傾(かぶ)くも頭(かぶ)の活用なり。俗に、頭の動くをやっこをふると云ふいなり。カビロクの他動には、カブラカスと云ふ(大言海)、

とあり、是非の判別はつかないが、「すずろ」を、

進む、

からきているという説である。

ものが衝動的に進む意のススル(進)が存した(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

も同趣だろう。他には、

すさぶ、

とする説がある(日本語源大辞典)。「すさぶ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473819467.htmlは、前に触れたように、

荒ぶ、
進ぶ、
遊ぶ、

と当て、

おのずと湧いてくる勢いの赴くままにふるまう意。また、気の向くままに何かをする意、

であり、意味の幅は、

勢いのままに盛んに~する、勢いのままに荒れる(「朝露に咲きすさびたるつき草の日くたつなへに、消(け)ぬべく思ほゆ」万葉集)、
気の向くままに~する、興にまかせて~する(「もろともに物など参る。いとはかなげにすさびて」源氏)、
もてあそぶ(「窓近き竹の葉すさぶ風の音にいとど短きうたた寝の夢」新古今)
勢いのままに進みはてて衰える(「雲間なく降りもすさびぬ五月雨筑摩の沼の水草なみよる」堀河百首)

と(岩波古語辞典)、「すずろ」「そぞろ」の、「不覚」の含意とは真逆である。しかも、「すさぶ」は、

進み荒(さ)ぶるの約、

とする(大言海)。「おのずと湧いてくる勢いの赴くままにふるまう」意から考えて、元々は、

すすむ、

の意に、

愈々進む、

の意を持たせたのではあるまいか。とすると、

すすむ→すさむ→すさぶ、

と音韻変化した(日本語源広辞典)と考えられ、さらに

すすむ、

の、

ススは、ススシキホヒ・ススノミのススと同根。おのずと湧いてくる勢いに乗って進行・行動する意、

とする(岩波古語辞典)なら、

おのずと湧いてくる勢いの赴くままにふるまう、

意とほぼ重なるのである。要は、「すずろ」の、

「すさぶ」語源説、

は、

「すすむ」語源説、

とほぼ重なり、いずれも、「すずろ」の「不覚」の意とは真逆なのである。考えてみれば、

てすさび、

という使い方を考えても、「漫然と」「無意識」の意とつながるとは思えない。となると、「すす」は、

気ぜわしく物や体を突き動かす擬態語、
あるいは、
脈絡が断絶している状態を示す擬態語、

とする(日本語源大辞典)のが妥当なのではないか。

貧乏ゆすり、

を考えても、「不覚」「無意識」の動作そのものなのだから。と言って、

意識を離れる意で、「ソラ」と同根(日本語源広辞典)、
ソソ(空空)の義(言元梯)、
ソソロ(空空)義(言元梯)、

は、ちょっと同意しかねる。「そぞろ→すずろ」の転訛ならあり得るが、「すずろ→そぞろ」の転訛なら、「すす」の説明になっていない気がする。


(「漫」 https://kakijun.jp/page/1460200.htmlより)

「漫」(漢音バン、呉音マン)は、

会意兼形声。曼(マン)は「冒の字の上部(かぶせるおおい)+目+又」の会意文字で、ながいベールを目にかぶせたさま。ながい、一面をおおうなどの意を含む。漫は「水+音符曼」で、水が長々と続く、また水が一面におおうなどの意、

とあり(漢字源)、「みちる」「一面を覆う」意だが、「漫談」「冗漫」と、「とりとめがない」意もある。で、水がひろがる、から転じて、とりとめがない意を表す(角川新字源)、とある。別に、

会意兼形声文字です(氵(水)+曼)。「流れる水」の象形と「帽子の象形と目の象形と両手の象形」(目の上下に手をあてて目を切れ長にみせるような化粧のさまから、擬態語として「とおい・長い」の意味)から、「どこまでものびる広い水」、「勝手きまま」を意味する「漫」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1264.html


(「漫」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1264.htmlより)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:そぞろ 漫ろ

2021年10月24日

なぞらえる


「なぞらえる」は、

準える、
准える、
擬える、

等々と当てる(広辞苑)。

おとにのみこふればくるしなでしこのはなにさかなんなぞらへてみん(「歌仙家集本家持集(11世紀)」)、

というように、

ある物事を類似のものと比較して、仮にそれとみなす、

つまり、

同類なす、
擬する、
見立てる、

という意味だが、さらに、あくまで思考の中での「類比」から、現実、

ならい従う、

となり、

ことの詞(ことば)につきてなぞらへ試みるに、奈良の御世より広まりたると侍る。赤人・人丸が逢ひ奉れる御世と聞えたり(「今鏡(1170)」)、

まねる、
似せる、

という意味でも使う(広辞苑・デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)。

今はなほ昔のかたみになずらへて(源氏物語)

なずらえる、

ともいう。

文語で言ふと、

なぞらふ、

で、

なぞらふの母音交替形、

が、

なずらふ、

とある(岩波古語辞典)。また、室町時代頃からヤ行にも活用し、

なぞらゆ、

とも言った(精選版日本国語大辞典)。

中古以来、「なずらえる」「なぞらえる」の両形がある。古辞書では、古くは「なずらう」の形が圧倒的だが、やがて「なぞらう」がふえてくる。しかし、「なぞう(なそう)」という語形が上代にあり、「なぞらう」はこれからの派生語と考えられるので、「なずらう」の方が古いとも断じにくい、

とある(仝上)ように、「なぞらふ」は、

なぞふの延、あとふ、あとらふの類、

とある(大言海)。あるいは、

「逆ふ」から「さからふ」の語形が生じた如く、「なぞふ」から「なそらふ(←なぞらふ→なずらふ)」が生まれたと考えられる、

ともある(小野寛「なそふ考」)。「なぞふ」は、

準ふ、
准ふ、
比ふ、

等々と当て(岩波古語辞典)、奈良時代までは、

うるはしみ吾(あ)が思(も)ふ君はなでしこが花になそへてみれど飽かぬかも(大伴家持)、

と、

なそふ、

と清音であった(仝上)が、平安時代以後は濁音化した(精選版日本国語大辞典)。語源については、

竝配(なみそ)ふの意、

しか見当たらない(大言海)。

ナゾラフがどのようにして成立したのかは未詳。ナゾフと関係があるとすればラフは接尾語的なものということになるが、ラフは平安時代には発達していない。また、ナゾルから作用継続性動詞としてナゾラフが派生したことも考えられるが、ナゾルが現れるのははるかに時代がくだってから、

とある(精選版日本国語大辞典)ように、意味的には、

書いてある文字の上をなすって書く、
そっくり真似をする、

意の「なぞる」から、

なぞる→なぞらふ→なぞゆ→なぞらえる、

といった転訛が連想されるが、無理筋のようだ。


(「准」 https://kakijun.jp/page/1017200.htmlより)

「准」(漢音呉音シュン、慣用ジュン)は、

会意兼形声。準は「水+十(集め揃える)+音符隹(スイ ずっしり、落ち着く)」の会意兼形声文字。水を落ち着けて水面を平らにそろえること。水準・平均の意を含む。准はその略字、

とあり(漢字源)、「標准(標準)」の「平らにならす」意と、「准用」「准拠」と「基準となる事柄に比べ合わせる」「拠る」意があり、「准后(ジュゴウ)」と「そのものに次ぐ」意、「平均する意から、同等にそろえて扱う意」の意、「准許」「批准」と「許す」意がある(仝上)。もと、准は、官庁の公文書では、準と区別して、主に、ゆるす、よる意に用いる(角川新字源)とある。別に、


(「准」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1595.htmlより)

会意兼形声文字です(氵(水)+隼)。「流れる水」の象形と「鳥の象形の下に一(横線)を加え、人が腕にとまらせた狩りに使う鳥」を示す文字(「はやぶさ」の意味)から、はやぶさの形をしている水準器(一定の物体の地面に対する角度を確認する器具)の意味を表し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「なぞらえる(仮にそれとみなす)」を意味する「准」という漢字が成り立ちました。「准」は「準」の略字です、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji1595.html


(「準」 https://kakijun.jp/page/1381200.htmlより)

「準」(慣用ジュン、漢音呉音シュン、漢音セツ、呉音セチ)は、

会意兼形声。隹(スイ)とは、ずんぐりと下体の太った鳥を描いた象形文字。淮(ジュン)は「水+音符隹」の会意兼形声文字で、水がずっしりと下にたまること。準は「十印(そろえる)+音符淮」で、下に溜まって落ち着いたみずの水面を基準として高低を揃えることを示す、

とあり(漢字源)、水準器の「みずもり」(水面が平らになるものを利用して水平かどうかをはかる)の意。そこから派生して、「準則」のような「尺度」の意、「たいらなさま」の「平準」、よりどころにする、なぞらう意の「準拠」「準用」の意、次ぐもの(主となるものに似ている)意の「準用」の意等々に使う。



「擬」(漢音ギ、呉音キ)は、

会意兼形声。疑は「子+止(あし)+音符矣(人が立ち止まり、振り返る姿)」からなる会意兼形声文字で、子供に心が引かれて足を止めてどうしようかと親が思案するさま。擬は「手+音符疑」で、疑の原義をよく保存する。疑は「ためらう、うたがう」意に傾いた、

とあり(漢字源)、「擬案(案を擬す)」のように「じっと思案する」「おしはかる」意と、「模擬」「擬古」のように「なぞらえる」意もある(仝上・角川新字源)。別に、



会意兼形声文字です(扌(手)+疑)。「5本の指のある手」の象形と「十字路の左半分の象形(のちに省略)と人が頭をあげて思いをこらしてじっと立つ象形と角のある牛の象形と立ち止まる足の象形」(「人が分かれ道にたちどまってのろま牛のようになる」の意味)から、「おしはかる」を意味する「擬」という漢字が成り立ちました、

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参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2021年10月23日

苛斂誅求


児玉幸多『近世農民生活史』読む。



本書は、当初、

江戸時代の農民生活、

であったが、再刊にあたって、書肆が変わり、「近世農民生活史」となったものだ。歴史的経緯よりは、江戸時代を通して、一貫した、幕藩体制下での農民生活を、

租税制制、
行政制度、
農民の統制、

と、

「農民が働くのは自分自身のためではない。それが封建時代の特徴であった。農民は領主のために、年貢生産のために働くのであって、その生活はその必要な限度に限定される。衣食住その他に関する制限禁止が行われた」

制度的な面に、ほとんどの紙面を割いている。

「農民の生活は、大土地所有者である封建領主およびその家臣らの、全国民の一割ぐらいに相当する人々を支えるために営まれていた。」

のであり、その象徴的な法令は、

「熊本藩で出した法令の中に、百姓は大小によらず牛馬を持たなくてはならない。田畑の耕作にも肥料を取るためにも、年貢の輸送にも必要な牛馬を持つことができない者に対しては、給人より気を付けてやり、また女子などを持っている百姓で、家内仕事に手の足りる者は、その女子を質奉公にでも出して牛馬を持たせる料簡が肝要である、と言っている。質奉公はいうまでもなく身売りすることである。耕作に必要とあれば牛馬に代えて最愛の娘を売ることさえ強要しているのである。」

であり、この法令の出た文化時代(1804~18)と対比して、

「天和二年(1682)の同藩民の人口39万4985人、寛政四年(1792)に53万2174人、同十年53万5543人と増加してきたのが、文化五年(1808)には51万2575人と減少したのに対して、牛馬は天和二年に3万5159頭、寛政四年には6万527頭、文化五年には9万1209頭と激増し、ほとんど一戸に一頭平均を有するに至っている。」

とされるのである。要は、百姓は、武家の食い扶持を稼ぐ手段と見なされている、いうことになる。

それにしても、江戸時代は、菊池勇夫『近世の飢饉』http://ppnetwork.seesaa.net/article/462848761.htmlで触れたように、飢饉の連続で、

「飢饉の年には木の根・草の根を掘り起こし、犬猫牛馬を食い、人の死骸を食い、生きている人を殺して食い、何万何十万という餓死者を出したときでさえも、武士には餓死する者がなかった」

のである。天保の飢饉に、

「新庄藩でも多くの飢人が出て城下町へ行って乞食をする者が多かったが、町家では与えるものもなくなり、ただ追い払うのみで、冷飯の残りや冷汁を与えたのは家中の士ばかり」

だったとあるし、享保十七年(1732)虫害による四国・中国・西国大飢饉のときに、

「福岡藩で大阪から買い求めたり幕府からの融通によって救助のため支出した米は、計13万6千石余であったが、その内訳は家中諸士の翌秋までの扶助米6万石、江戸屋敷家中諸士へ2万3千石、在々町々浦々の至極貧窮の飢人に麦作のできるまでの救として5万3千石で、六割以上は藩士の救済にあてられていた」

とある。

となると、当然租税の取り立ては厳しいものになる。嚴しい貢米検査を経て、とにもかくにも納入できればともかく、未進者、つまり未納者は、悲惨な目に遭った。

「皆済まで庄屋またはそれに代るべき者を人質として抑留するという所もあり、小倉藩では手永手代(大庄屋管轄区域)手代(代官配下)が出張して取り調べ、未進者が数日の延期を願い出て方頭(ほうず 組頭)以下組合(五人組)の者が保証すれば帰宅を許し、さもなければ手錠をかけて庄屋役宅に監禁する。その間に親類組合仲間にて融通がつけば放免されるが、永年未進が続けばそれを償却することは不可能になり、ついに本人が逃走すなわち欠落するようになる。」

あるいは、年貢を未進した場合には、籠舎されるのが普通であったが、

「金沢藩ではまず手鎖をかけて取り逃がさないようにして、のちに禁牢の処分をしている。熊本藩では在中の会所に堀を掘って水をたたえ、中央に柱を立て、未進百姓をそれに縛りつけて苛責した。」

とまである。当人が欠落すれば、その咎が残された組の者、庄屋にも及ぶことになるが、こうした苛斂誅求をみると、かつて、その過酷な取り立てで、島原一揆につながったとされる、島原藩の未進米の過酷な取り立ての、たとえば、

「碩翁聞伝へしハ、丑(うし)(寛永十四年)の秋嶋原領内甚損毛(そんもう)ニて、年貢未進多き故に、代官取立るといへ共、はかく敷不納、(中略)家老の隠居田中宗甫(むねすけ)と云者申けるハ、……自身村々を廻り、水牢を弥強く仕懸、未進の穿鑿を致しける故、……口ノ津村大百姓与三左衛門と云者、未進米三拾俵計りあるをはけしく取立しにより、しはらく指延給り候得と達てことはり申けれとも、宗甫曽て聞いれす、却て与三左衛門か媳を捕へ、水牢に入る、其女懐胎にて殊に産月に中りしかハ、其段を断り、夫を水牢に入かへ給はり候様に願ひけれとも、承引なく懐胎故にこそ幸ひニ思ひ、水牢に入たり、それを難義に思はゝ、未進を納むへしと責む、与三左衛門家財ハ先達て悉く御卸し漸々農具計り残したりしかハ、力なく居たる所に、彼女水牢のうちにて産を悩苦して死す」(嶋原一揆談話)、

という仮借のない取り立てと、ほんの紙一重に過ぎないことを思い知らされる。さらに、本年貢(本途物成)以外の、小物成、運上、冥加等々の様々な雑税は、久留米藩の承応三年(1654)の、郡中蔵入方から納めるものを、

「豊前の内裏まで送り迎え、そのほか領分中の使人足二万二千人、同じく荷物千百疋、縄三千束、藁千七百駄、すぐり藁一万頭、すさ藁五十駄、とまかや三千把、ふきかや千二百駄、小麦藁五百駄、むしろ千九百枚、畳こも千七百枚、竹釘三石、箸七千膳、草ぼうき百七十本、白辛子一石三斗、黒胡麻八斗、芥子八斗、葱冬花二斗五升、いばらの花二斗五升、蓮芋のくき千本、まこも五月節句之用十五把、はゑもぐさ八斗、もみぐさ一斗、ゑもぎ三把、しょうぶ三把、わらしべ五把、色付煤五石、蓮葉三十枚、かうり根粉二斗、土筆五斗、せり五十把、栗芋五斗、ぬか七十俵、明俵二千俵、真藤十六把、しゅろの皮千五百枚、たにし二斗、大根千五百本、牛蒡五十本、鳥の羽二万五千羽、あら芋二十貫目、はい木あさから百五十本、あさのみ五合、なたまめ五百、たぶのみ二石、よくいにん二斗」

とあり、ふと島原藩の苛斂誅求の見本のような、

「百姓共は毎年、米・大麦・小麦を以て一般租税を払ったが、その上更に二つの布Nono又は籠Cangaを納めねばならなかった。更に、煙草の木一本につき、冥加(冥加金)としてその葉の半分を取られたが、これは常に極上で最大の葉が選ばれた。もし上記の規定の品物のそろわぬ場合には、殿に対し二様の賦課を受けねばならなかった。即ち茄子一本に対し実を何箇という類の割り当てのものと、各家ごとに年貢外の何物かを納むべきものとである。しかし、調べの役人が何物も取り上げるものがないと見た時には、山に入って塩釜にたく薪を切らせた。憐れなる農民の血をしぼって、大名の増収を計るのに汲々たる様は、斯くの如くであった。」(ドアルテ・コレア・天草島原一揆報告書)。

という取り立てを思い出した。結局程度問題に思えてくる。幕末、林子平は、各藩の窮乏の原因を、

「藩主と家老が不學無術であれば国家(藩)は貧乏する。貧乏すれば領国中川除普請がおろそかになり、年々夏秋の小洪水にも押し切られ、田畑は水押になって永荒の地が年々に生ずる。これが貧乏の上に収納の不足になる第一である。また橋々の普請もおろそかになり年々の小洪水に落橋する。それゆえ領内数多の橋を一年に二三度ずつも普請をし、そのたびごとに大橋は人夫三四万、小橋は四五千も使役して、その過半は錢で納めさせるので百姓の力が不足して、天候は凶年でなくても田畑は不毛である。これが収納不足になる第二である。この二つのために百姓は苦労して、いつとなく農業を務めぬようになり、貧乏にもなり、あるいは欠落して他国に移る者もあり、あるいは農を捨てて商人に成る者もあり、郡村の人口は減少して田畑はいよいよ荒廃する。これが収納不足になる第三である。収納が不足になれば藩庫が窮乏するので、毛見と称して姦吏を派遣して年貢を責めはた(徴)る。責めはたられれば百姓は姦吏に贈賄して上作をも下作と披露して年貢の減少を計る。これが収納不足になる第四であって、この四つの不納のために藩庫はますます窮して家中諸士の封禄を借り上げるに至るのである。」

としている。結局、倹約によって出るを押さえるか、増税によって入るを増やすかしか手立てのない体制下では、しわ寄せは、いずれにしても、下層へと押し付けられるしかない。

幕藩体制下での農民の生活は、しかし、小前を別にすると、租税の賦課率が同じなのだから、大百姓には有利であり、また都市の商工業者は課税されない。その租税制度は改められることはなく、貧富の格差は拡大しつづけ、そのまま制度そのものの矛盾として、幕末へと至ることになる。

幕藩体制下の農民、ないし農村社会のありようについては、
藤野保『新訂幕藩体制史の研究』http://ppnetwork.seesaa.net/article/470099727.html
渡邊忠司『近世社会と百姓成立』http://ppnetwork.seesaa.net/article/464612794.html
菊池勇夫『近世の飢饉』http://ppnetwork.seesaa.net/article/462848761.html
深谷克己『百姓一揆の歴史的構造』http://ppnetwork.seesaa.net/article/474047471.html
水林彪『封建制の再編と日本的社会の確立』http://ppnetwork.seesaa.net/article/467085403.html
速水融『江戸の農民生活史』http://ppnetwork.seesaa.net/article/482114881.html?1624300693
山本光正『幕末農民生活誌』http://ppnetwork.seesaa.net/article/482424187.html
成松佐恵子『名主文書にみる江戸時代の農村の暮らし』http://ppnetwork.seesaa.net/article/482868152.html?1628622396、でそれぞれ触れた。

参考文献;
児玉幸多『近世農民生活史』(吉川弘文館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

2021年10月22日

兵略あっての忍び


平山優『戦国の忍び』を読む。



本書は、史料に出てくるかぎりで、

「Ninja」でも、「忍者」でもない、戦国の「忍の者」(本書では、「忍び」で統一)の実像を可能な限り追い駆けてみたい」

とし、

「Ninja」や「忍者」が駆使する、忍術や武器については、まったく言及していない。当時の史料には、まったく登場せず、検討の仕様がないからである、

としている(はじめに)。その意味では、実戦の中で、どんな使われ方をし、どんな戦い方をしているかに中心がある。

「忍び」の類をまとめたものは江戸時代以降で、代表的なものは、『武家名目抄(ぶけみょうもくしょう)』(1806)と、江戸時代も後期になってからである。そこでは、

他の項目と同じく、忍びについて、様々な文献をもとに考察が記されている、

が、そこでは、

忍目付、
忍物見 又称芝見、カマリ物見、
物聞(ものきき) 又称聞物役、耳聞、外聞聞次、
遠聞(とおぎき)、
訴入、
忍者 又称間者、諜者、
透波(すっぱ)、

等々がある。「忍者」については、こう説明している。

按ずるに、忍者はいはゆる間諜なり、故に或いは間者といひ、又諜者とよぶ、さて其役する所は、他邦に潜行して敵の形勢を察し、或いは仮に敵中に随従して間隙を窺ひ、其余敵城に入て火を放ち、又刺客となりて人を殺すなとやうの事、大かたこの忍かいたす所なり、物聞、忍目付なといふも多くはこれか所役の一端なるへし、もとより正しき識掌にあらされは、其人のしな定まれることもなし、庶士の列なるもあり、足軽同心又は乱波、透波の者もありしとみゆ、京師に近き所にては、伊賀国又は江洲甲賀の地は、地侍多き所なりけれは、応仁以後には各党を立てて、日夜戦争をし、竄賊、強盗をもなせしより、おのつから間諜の術に長するもの多くいてきしかは、大名諸家、彼地侍をやしない置て、忍の役に従はしむる事の常となりてより、伊賀者・甲賀者とよはるるもの諸国にひろこりぬ、これ鉄炮組には多く、根来者を用ふるたくひなり、

とある。戦国時代が終わってから二百年も経っての見解なので、相当に割り引く必要はあるが、本書は、史料に登る用語を丹念に追いかけていく。ただ、

草、
草調儀、
伏、
伏勢、
伏調儀、
野臥、
かまり、

等々を史料を基に追って行くのはいいが、果たして、たとえば、

草、

かまり、

とを厳密に区別しているのか、それてもかなり雑な使い方なのかは、同一史料で、両者を厳密に比較していないので、分からない。「忍」http://ppnetwork.seesaa.net/article/416745079.htmlで触れたことだが、

乱波(らっぱ)
透波(出波)(すっぱ)
突波(とっぱ)

と呼ばれたり、


とか

とか
かまり

と呼ばれたりするが、確か、三田村鳶魚が、

「乱波・出波は、少人数、数人あるいは一人でやる場合と、集団で用いる場合は、少し様子がちがう。普通の忍びは、戦時でないときに使うのだが、戦時は『覆』といって、これはだいぶ人数が多い。多ければ千人もに千人もになるし、少なくとも二三百人ぐらいはある。」

と言っていた。山蔭に隠して、不意を襲うので、「むらかまり」「里かまり」「すてかまり」等々と呼ぶという。少人数を隠す場合、「伏」とも呼ぶ。「草」とも言うなど、

乱波(らっぱ)、
透波(出波)(すっぱ)、
突波(とっぱ)、

は、どちらかというと、

忍び、

がその行動と同時に、その人を指すのに対して、

草、
草調儀、
伏、
伏勢、
伏調儀、
野臥、
かまり、

は、作戦行動(兵略)を指しているように思われる。たとえば、草の活動について、

奥州の軍(いくさ)言葉に草調儀などがある。草調儀とは、自分の領地から多領に忍びに軍勢を派遣することをいう。その軍勢の多少により、一の草、二の草、三の草がある。一の草である歩兵を、敵城の近所に夜のうちに忍ばせることを「草を入れる」という。それから良い場所を見つけて、隠れていることを「草に臥す」という。夜が明けたら、往来に出る者を一の草で討ち取ることを「草を起こす」という。敵地の者が草の侵入を知り、一の草を討とうとして、逃げるところを追いかけたならば、二、三の草が立ち上がって戦う。また、自分の領地に草が入ったことを知ったならば、人数を遣わして、二、三の草がいるところを遮り、残った人数で一の草を捜して討ち取る、

とある(政宗記)。これはもうゲリラ戦といっていい。

それにしても、折口信夫が、

透波・乱波は諸国を遍歴した盗人で、一部は戦国大名や豪族の傭兵となり、腕貸しを行った。透波・乱波は団体的なもので、親分・子分の関係がある。一方、それから落伍して、単独となった者を、すりと呼んだ。山伏も法力によって、戦国大名などに仕えることもあった。山伏の中には逃亡者・落伍者・亡命者などが交じり、武力を持つ者もいて、この点でも、透波・乱波と近い存在である(ごろつきの話)、

と書いたり、

これ常に忍の役するものの名称にして一種の賤人なり。ただ忍(しのび)とのみよべる中には庶士の内より役せらるるもあれど、透波とよばるる種類は大かた野武士強盗などの中よりよび出されて扶持せらるるものなり。されば間者(間諜)かまり夜討などには殊に便あるが故に、戦国のならひ、大名諸家何れもこれを養置しとみゆ。…(透波、乱波)の名儀は当時の諺に動静ととのはず首尾符合はせざるものをすつはといひ、事の騒がしく穏やかならぬをらつはといひしより起これるなるべし(武家名目抄)

と書いたりしたために、「忍び」は、通常の侍とは別の、

盗人、

等々の人間を雇ったとする説に偏り過ぎでいないか。

そもそもが、足軽自体が、飢饉と戦乱の中、稼ぎに出てきた農民なのであることは、「足軽」http://ppnetwork.seesaa.net/article/462895514.htmlで触れたし、その背景については、藤木久志『雑兵たちの戦場』http://ppnetwork.seesaa.net/article/463652420.htmlでも触れた。いわゆる、

乱取り、

がある。その中心になる、

雑兵、

は、

身分の低い兵卒をいう。戦国大名の軍隊は、かりに百人の兵士がいても、騎馬姿の武士はせいぜい十人足らずであった。あとの九十人余りは雑兵(ぞうひょう)と呼んで、次の三種類の人々からなっていた。
①武士に奉公して、悴者(かせもの)とか若党(わかとう)・足軽などと呼ばれる、主人と共に戦う侍。
②武士の下で、中間(ちゅうげん)・小者(こもの)・荒子(あらしこ)などと呼ばれる、戦場で主人を補(たす)けて馬を引き槍を持つ下人(げにん)。
③夫(ぶ)・夫丸(ぶまる)などと呼ばれる、村々から駆り出されて物を運ぶ百姓(人夫)たちである、

とされ(藤木久志『雑兵たちの戦場』)、雑兵の中には、

侍(若党、悴者は名字を持つ)

武家の奉公人(下人)、

動員された百姓、

が混在している。さらに、

草・夜わざ、かようの義は、悪党その外、はしり立つもの、

といわれる、いわゆる、

スッパ、ラッパ、

もまた雑兵に入る。この者たちは、いずれも、

戦場でどうにか食いつないでいた、

のである(仝上)。となると、なにも、

盗人、
と、
乱取りする雑兵、

との区別はつかない。そういう時代なのではないか、戦国時代は。

それともう一つ、

城乗っ取り、

を、忍びの専売特許にし過ぎる。それは、平和の時代、軍のなかった江戸時代の常識に左右され過ぎているからではないか。現に、『太平記』には、笠置山に三千余で籠城する後醍醐天皇の城を、

備中国住人陶山字藤三郎、小宮山次郎以下五十余人、

が、夜の城に潜入し、

ここの役所に火を懸けては、かしこに時の声を揚げ、かしこ時を作っては、ここの櫓に火を懸くる。四方八方走り廻って、その勢山中に充満したるやうに聞こえければ、陣々を堅めたる官軍ども、城中に敵大勢攻め入つたりと心得て、物具を脱ぎ捨て、弓矢をかなぐり捨て、崖、堀と云はず、倒れふためいてぞ落ち行ける、

と、落城させている。つまりは、兵略なのであって、その手先の人々の才覚・能力を嵩上げして考えるべきではない。

あるいは、同じく『太平記』に、

結城(駿河守)が若党に、物部郡司とて世に勝れたる兵あり。これに手番(てつか)ふ者三人、かねてより、敵もし夜討せば、敵の引つ帰さんに紛れて赤坂城へ入り、和田(正氏)、楠(正儀)に打ち違へて死ぬるか、しからずんば城に火を懸けて焼き落とすか、

と待ち構えていた。四人は、予想通り和田が兵三百で夜討したのに紛れて、まんまと赤坂城に入り込む。しかし、夜討の後は、

立ち勝(すぐ)り居勝(いすぐ)り、

といって、

陣中に敵が侵入したときに、前もって決めておいた合図に従って立ったり座ったりして、行動の一致しない敵を見つけ出す方法、

があり、これによって四人は捕らえられる。この潜入者炙り出し法も、著者は、「忍び」の手法に挙げていたが、敵の夜襲も、それに紛れ込むのも、別に特別「しのび」の専売特許ではない。あくまで、兵法、兵略の一つに過ぎない。

情報収集としても、島原一揆の折、原城に忍び込んだ伊賀者は、相手の言葉が分からず、何の役にも立たず、発見されて、這う這うの体で、逃げてきている。戦国期、全国に敵味方で散らばった「しのび」仲間同士(たとえば伊賀者同士)なら使えた情報交換が役に立たなかった、ということでもあったらしいが、結局、「しのび」も、

兵略、

の一つに過ぎない。兵略なしに、

忍び、
も、
忍び作戦、

もないのではないか。つまり、当たり前のことだが、

忍びあっての兵略、

ではなく、

兵略あっての忍び、

なのである。

「忍」http://ppnetwork.seesaa.net/article/416745079.htmlについては、触れた。また、忍びの「かまり」「くさ」等の活動については、盛本昌広『境界争いと戦国諜報戦』http://ppnetwork.seesaa.net/article/396352544.htmlで触れた。また、和田裕弘『天正伊賀の乱』http://ppnetwork.seesaa.net/article/483008903.htmlで、伊賀衆の末路については触れた。

参考文献;
平山優『戦国の忍び』(角川新書)
三田村鳶魚『江戸の盗賊 鳶魚江戸ばなし』(Kindle版)
笹間良作『日本戦陣作法事典』(柏書房)
盛本昌広『境界争いと戦国諜報戦』(歴史新書y)

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2021年10月21日

ひこばえ


「ひこばえ」は、

蘖、

と当てる。

「孫(ひこ)生え」の意、

とある(広辞苑)。

切り株や木の根元から出る若芽、

をいう(仝上)。新撰字鏡(898~901頃)に、

荑、死木更生也、比古波江、

とある(精選版日本国語大辞典)。

余蘖・余孽(よげつ)、

ともいう。これは、春の季語である。

(ひこばえ デジタル大辞泉より)

太い幹に対して、孫(ひこ)に見立てて、

ひこばえ(孫生え)、

というらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%96。訛って、

ひこばゆ、
ひこばう、

等々ともいう(精選版日本国語大辞典)。「ひこ」に、

孫、

を当てることは、「ひこ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483945574.html?1634499550で触れたが、和名類聚抄に、

子之子為孫、無万古(むまこ)、一云、比古、

とある。これは、

ヒは物を隔つる義、曽孫を更にヒヒコと云ふもこれなり(大言海)、

とし、

他には載らないが、大言海は、「ひ」を、

隔、
重、

と当て、

重(へ)と通ず、

とし、

物を隔つるもの、又、コトの重なること、

とし、

ヒオホヂ(曾祖父)、
ヒオホバ(曽祖母)、
ヒヒコ(曾孫)、

を例示している。

なお、「ひこばえ」は、樹木の切株の新芽を言うが、刈り取った稲の株から生えるのを、

穭(ひつじ)、

という(広辞苑)。「ひつじ」は、訛って、

ひづち
ひつぢ、
ひつち、
ひずち、

等々とも言うが、

稲孫、

と当て(精選版日本国語大辞典)、類聚名義抄(11~12世紀)に、

穭、ヲロカオヒ、俗に云、ヒツチ、

とあるように、室町時代までは、

ひつち、

といった(岩波古語辞典)。これは、

刈れる田におふるひつちの穂にいでぬは世を今更に秋はてぬとか(古今集)、

と、秋である。「をろかおひ」は、

疎生、
穭、

と当て、

刈りあとの株から生えたひこばえ、再生稲、ひつじ、

とある(広辞苑)。



「ひづち」の由来は、

刈れる後の乾土(ヒツチ)より生ふれば名とするか(大言海)、
秣、ヒツチ、稲の再生して実なるを云、秋田をかり、水をおとして後、干土(ヒツチ)より出て、みのるものなればヒツチと云(日本釈名)、

とある(大言海)。「ひづち」は、さらに、

稲の二番生(ばえ)、
ままばえ、
再熟稲(さいじゅくとう)、
おろかおひ(おい)、

等々ともいう(仝上)とあるので、

ただ新芽が出るだけではなく、実のなる、

のを指しているようだ。で、学術的には、

再生イネ、

といい、一般には、

二番穂、

とも呼ばれ、

穭稲(ひつじいね)、
穭生(ひつじばえ)、

等々ともいい、稲刈りのあと穭が茂った田を、

穭田(ひつじだ)、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E5%AD%ABとある。



「蘖(櫱)」(漢音ゲツ、呉音ゲチ)は、

会意兼形声。草冠の下の字(ゲツ)は、途中で切る、刈り取るの意を含む。蘖はそれを音符として、草と木をそえたもの、

とあり(漢字源)、「切株」「ひこばえ」の意である。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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2021年10月20日

ひと


「ひと」は、



と当てるが、

生物としての人間。社会的に一人前の人物として認められている人間。また、特に自分が深い関心や愛情を抱いている人物。また、社会的に無視できない人物をいう、

とある(岩波古語辞典)。

わくらばにひととはあるを人並に吾(あれ)も作(なれ)るを綿もなき布肩衣(ぬのかたぎぬ)の海松(みる)のごとわわけさがれるかかふのみ肩にうち掛け(山上憶良)、

と、物や動物に対して人間の意、

いつしかも人と成り出でて悪しけくも善けくも見むと大船の思ひ頼むに思はぬに邪しま風のにふふかに覆ひ来れば(万葉集)、

と、一人前の人間の意、

人柄は、宮の御人にて、いとよかるべし(源氏物語)、

と、深い関心・愛情の対象としての人間の意、

汝をと吾(あ)をぞひとそ離(さ)くなるいで吾君(あがきみ)人の中言(なかごと)聞きこすなゆめ(万葉集)、

と、社会的に自分と対立する人間(岩波古語辞典)、他人の意、あるいは、

これは、君もひとも見を合はせたりといふなるべし(古今集序)、

と、

大君一人に対し、天が下の人、つまり臣の意(大言海)、等々で使われる。

「ひと」は、「ヒ(霊)」とからめて、

ヒ(靈)のト(止)まる所の意、またヒト(靈処)の義(大言海・東雅・名言通・本朝辞源=宇田甘冥)、
ヒト(靈者)の義(日本古語大辞典=松岡静雄)、
「精神を持った存在、ヒト(靈処)、ヒト(靈者)、すぐれた存在、ヒ(秀)+ト(人)の意(日本語源広辞典)、
ヒト(秀者)の義(日本古語大辞典=松岡静雄)、

等々とする説があるが、「ひこ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483945574.html?1634499550で触れた、

ヒは系譜を継ぐ意で用いるヒコ(孫)・ヒヒコ(曾孫)と同源、トはタミ(民)のタと同源(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

もあるが、ヒ(日)と関わらせ、

日の友の義(日本釈名・柴門和語類集)、
ヒト(日与)の義、日と与(とも)に生きる意(和訓栞)、
日の徳の止まるの略、また日に等しの略(国語蟹心鈔)、

等々とするよりは、「ひこ」が、

日+子、

なら、それと準じて、

甲類ヒ(霊・日)+乙類ト(止・留・処・所・跡・迹)で、「霊の留どまるところのものとの旨か、

とするhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%B2%E3%81%A8のが順当に思えるが、確定していないようだ。

「ヒ(日)」は、太陽の意だが、「ヒ(靈)」は、

太陽神の信仰によって成立した観念、

とあり(岩波古語辞典)、両者はつながる。

「ひと」に対する「もの」http://ppnetwork.seesaa.net/article/462101901.htmlについては触れたが、「もの」は、

形があって手に振れることのできる物体をはじめとして、広く出来事一般まで、人間が対象として感知・認識しうるものすべて。コトが時間の経過とともに進行する行為をいうのが原義であるに対して、モノは推移変動の観念を含まない。むしろ変動のない対象の意から転じて、既定の事実、避けがたいさだめ、普遍の慣習・法則の意を表す。また、恐怖の対象や、口に直接指すことを避けて、漠然と一般的存在として把握し表現するのに広く用いられた。人間をモノと表現するのは、対象となる人間をヒト(人)以下の一つの物体として蔑視した場合から始まっている、

とある(岩波古語辞典)。「オニ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461493230.htmlで触れたように、折口信夫は、古代の信仰では

かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、ものとの四つが代表的なものであった、

としている(鬼の話)が、大野晋は、

「もの」という精霊みたいな存在を指す言葉があって、それがひろがって一般の物体を指すようになったのではなく、むしろ逆に、存在物、物体を指す「もの」という言葉があって、それが人間より価値が低いと見る存在に対して「もの」と使う、存在一般を指すときにも「もの」という。そして恐ろしいので個々にいってはならない存在も「もの」といった、

とし(「もの」という言葉http://www.fafner.biz/act9_new/fan/report/ai/oni/onitoyobaretamono.htm)、「もの」としか呼べないもののなかから、かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と分化していった、としている。

「人」(漢音ジン、呉音ニン)は、

象形。人の立った姿を描いたもので、もと身近な同族や隣人仲間を意味した、

とあり、その範囲を、

四海同胞、

まで広げ、それを仁と呼んだ(漢字源)、とある。

なお、「こと」http://ppnetwork.seesaa.net/article/462119208.htmlについても触れた。


(「人」 https://kakijun.jp/page/0206200.htmlより)

立っている姿には違いないが、

人が立って身体を屈伸させるさまを横から見た形にかたどる(角川新字源)、
人が立っている姿の側面を描いたものhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BA%BA

というところだろう。


(「人」 金文・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BA%BAより)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:ひと

2021年10月19日

ひめ


「ひめ」は、

姫、
媛、

と当てる(広辞苑)が、

日女、
比売、

とも当てhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%B2%E3%82%81

「め」は女性を表す。「ひ」は後代の「御」に相当する、敬意を表す接頭辞、

であり(仝上)、

ひこ(彦)の対、

とある(仝上・広辞苑)。

「ヒメ」の古形は「ヒミ」と考えられる、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A1、『上宮記』は、

推古天皇の別名「豊御食炊屋姫」(とよみけかしきやひめ)を「等已彌居加斯支移比彌」(とよみけかしきやひみ)と記している。阿波国には波尓移麻比彌神社(はにやまひめ)があり、ヒメは比彌(ひみ)と記されている、

として、古代において、

ヒメとヒミは通用していたと思われる、

という(仝上)。

「ひめ」は、上代には、

またの名は比売多多良伊須気余理(たたらいすけより)比売(古事記)、

と、

女性の美称、尊称、

の意(岩波古語辞典)で、

地神(土着)系の女性(メやベ)と区別される、天孫・天神系(天皇やその伴造)の女性を意味した、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A1、4世紀まで、

速津媛(はやつひめ 豊国速見地方)、
八女津媛(やめつひめ 筑紫国八女地方)、

等々地域の女性首長の尊称として使われた(仝上)。平安期になると、

この皇女(みこ)は昔名高かりける姫、手書き歌よみなり(宇津保物語)、

と、

貴人の娘、

を指し、そこからだろうか、

ちはやぶる賀茂の社の姫小松よろづ世経(ふ)るとも色は変らじ(古今集)、
とか、
姫鏡、小鏡也(俳諧・乳母)、
とか、
姫百合、

等々と、

他の語に冠して、かわいらしい、きゃしゃで小さいの意を表し、さらに、その意から、

強飯(こはいひ)、

に対して、

姫飯(ひめいひ)、

と、

飯(めし)の意でも使うに至り、終には、江戸期には、

おやま、遊女なり、……女中、姫、などと唱ふ(浪花聞書)

と、

遊女、

の意にまで変化する(岩波古語辞典)。

「ひこ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483945574.html?1634499550で触れたように、「ひめ」も、

日女の意(広辞苑・大言海・日本語源広辞典・和句解・類聚名物考・俚言集覧・和訓栞・本朝辞源=宇田甘冥・日本語原学=林甕臣)、

とするのが大勢で、

ヒは日・太陽、ムスヒ(産霊)・ヒモロキ(神籬)のヒと同じ。メは女子の意、

とある(岩波古語辞典)。「め(女)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/483689364.htmlについては、触れた。

霊+メ(女)で、神の娘(日本語源広辞典)、
ヒメ(霊女)の義(箋注和名抄・俚言集覧・名言通・日本語源=賀茂百樹・日本国家の起源=大野晋)、

もほぼ同趣旨とみていい。

ひめ(日陰)の義(柴門和語類集)、
ヒイデタル女の義(日本釈名・柴門和語類集)、

等々は少しその変形か。

なお、古代国家成立以前には、

ヒメ・ヒコ制、

という

兄弟姉妹(姫と彦)による二重支配体制、

があったとされ(世界大百科事典)、

祭祀的・農耕従事的・女性集団の長のヒメ(あるいはミコ、トベを称号とした)、

軍事的・戦闘従事的・男性集団の長のヒコ(あるいはタケル、ワケあるいはネを称号とした)、

が共立的あるいは分業的に一定地域を統治していた(高群逸枝)、

とされている別表四・五〈一〉を中心とした法人税「申告・修正申告・更正後の処理」の実務Q&A


(「媛」 https://kakijun.jp/page/1038200.htmlより)

「姫」(キ)は、

形声。姫の右側は臣(シン)とは別字で、もと頤(イ あご)の左側と同じ。頤の原字。姫は、女にそれを音符としてそえたもの。あるいは、あごの張った女性の意味か、

とあり(漢字源)、和語で使う「身分の高い女性の尊称」の意はなく、「姫妾(きしょう)」というように、身分の高い人の「めかけ」の意や、宮廷につかえる貴婦人の意である。しかし、

会意形声。「女」+音符「臣」、「臣」は、貴人の前で目を伏せた様で、貴人の前でかしこまること。「説文解字」には見えず、「康煕字典」には掲載があるものの、引用は「集韻」からのみであり稀用の文字と考えられる。現代中国語での使用例はほとんどない。日本では、「姬」の新字体となり、別字衝突が発生している、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A7%AB

旧字は、形声。女と、音符𦣝(イ)→(キ)とから成る。もと、周王朝の姓。転じて、貴婦人の意に用いる。常用漢字は、もと「シン」の音で、「つつしむ」意を表す別字であるが、姬の省略形として採用された、

とも(角川新字源)、


(「姫」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1389.htmlより)

会意兼形声文字です。「2つの乳」の象形と「両手をしなやかに重ねた女性」の象形から、「子を養い育てる事ができる女性」、「ひめ」を意味する「姬・姫」という漢字が成り立ちました。「姫」はもと、別字(女+臣(「しっかり開いた目」の象形で「家来」の意味))で「慎む」の意味を表しましたが、のちに、「姬」の略字として用いられるようになりました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1389.html


(「媛」 https://kakijun.jp/page/1232200.htmlより)

「媛」(漢音呉音エン、呉音オン)は、

会意兼形声。爰(エン)は、両手の間に接触の仲立ちをする物をはさんでゆとりをあけたさま。媛は「女+音符爰」で、優美なゆとりあるゆかしい女、

とあり(漢字源)、「ひめ」の意である。別に、

会意形声。「女」+音符「爰」。「爰」は「爪」「又」(ともに手を意味)の間に物を引っ張る様子。魅力があって気を引く女性の意か、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AA%9B

会意兼形声文字です(女+爰)。「両手をしなびやかに重ね、ひざまずく女性」の象形と「あるものを上下からさしのべてひく」象形(「ひく」の意味)から、「心のひかれる美しい女性」を意味する「媛」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1124.html


(「媛」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1124.htmlより)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2021年10月18日

ひこ


「ひこ」は、

彦、

と当てる(広辞苑)が、

比古、
日子、
毘古、

等々とも当てhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%B2%E3%81%93

姫(ひめ)、

の対である(岩波古語辞典)。

名は天邇岐志国邇岐志(あめにぎしくににぎし)天津彦(あまつひこ)彦番能邇邇芸命(ひこほのににぎのみこと)そ。此の子を降すべし(古事記)、

と、

男子の美称、

だが、

此の速秋津彦(はやきつひこ)・速秋津姫の二柱の神、河海に因りて持ち分けて生める神の名は(古事記)、

と、

男子、

をも指す(岩波古語辞典)。「ひこ」は、魏書・東夷伝の、

始めて一海を渡る千余里、対馬国に至る。其の大官を卑狗(ひこ)と曰ひ、副を卑奴母離(ひなもり)と曰ふ、

とある「卑狗」は、彦と推定されている(仝上)。


(「彦」 https://kakijun.jp/page/0959200.htmlより)

「ひこ」は、

日子の義、日は美称。ヒメも同じ。相対す。中国最古の字書『爾雅』(漢初)、「美女為媛、美士為彦」。男子を美(ほ)めて呼ぶ語(大言海)、
ヒコ(日子)の義、ヒは美称(東雅・類聚名物考・俚言集覧・和訓栞・柴門和語類集・日本語原学=林甕臣)、
ヒは日・太陽。ムスヒ(産霊)・ヒモロキ(神籬)のヒと同じ。コは男子の意。太陽の子、あるいは太陽の神秘的な力をうけた子の意。尊称として男神の名に冠せられ、また男の名前の下につけて使われた。後に、一般的に男の尊称。なお「彦」の字は美男の意(岩波古語辞典)、

と、

日子、

とする説が多い。

ヒイデタル-コ(子)の意(日本釈名)、
ヒ(日)の子孫の義(燕石雑記・本朝辞源=宇田甘冥)、
ヒは神聖なの意、コは男の意(日本国家の起源=大野晋)、
ヒコ(靈子)の義(名言通)、
ホコ(陽子)の義(言元梯)、

等々も同趣旨とみられる。さらに、

ヒコネ・ヒコナの略。コナはクナで、朝鮮語で人の意のkanと同源(日鮮同祖論=金沢庄三郎)、

の他に、

ヒは、ヒコ(孫)・ヒヒコ(曾孫)と同語源で、それ故に尊く、美称ともなる(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

というのがある。たしかに、「ひこ」は、

孫、

と当てて、和名類聚抄(平安中期)にある、

子之子為孫、無万古(むまこ)、一云、比古、

とある(岩波古語辞典)。しかし、同語源というのはどうだろうか。

ヒは隔てるとともに継承の意を表す(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

という意味から「同源」としているようだが、

「こ」は男子を表す。「ひ」は後代の「御」に相当する、敬意を表す接頭辞、

との説もありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%B2%E3%81%93

その意味では、

神の尊称、

孫の美称、

では意味が違い過ぎる気がする。

「ひこ」(孫)は、

ヒは物を隔つる義、曽孫を更にヒヒコと云ふもこれなり(大言海)、

他には載らないが、大言海は、「ひ」を、

隔、
重、

と当て、

重(へ)と通ず、

とし、

物を隔つるもの、又、コトの重なること、

とし、

ヒオホヂ(曾祖父)、
ヒオホバ(曽祖母)、
ヒヒコ(曾孫)、

を例示している。他にも、

ヒコ(隔子)の義(箋注和名抄・俗語考・日本語源=賀茂百樹)、

ともあり、

コ(子)にヒを冠したものと考えられ、類例にヒヒコ(曾孫)などがあり、ヒは一代隔てた親族を表すと思われる、

とある(日本語源大辞典)。ただ、

このヒは、ヒコ(彦)・ヒト(人)・ヒメ(姫)などとの関連も考えられる、

ともある(仝上)。もしそうだとすると、

ヒは隔てるとともに継承の意を表す(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

の意味から、

ヒコ(彦)→ヒコ(孫)、

へと「ヒ」の意味が分岐したことになる気がする。

「彥」(ゲン)は、

会意兼形声。厂(ガン)は、厂型にくっきりとけじめのついたさま。彥「文(模様)+彡(模様)+音符厂」で、くっきりと浮き出た男の顔、

とあり(漢字源)、「美男子」の意である。そこから転じて、才徳の優れた青年の意を表すhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BD%A6。別に、

会意兼形声文字です(文+厂+彡)。「人の胸を開いて、そこに入れ墨の模様を書く」象形(「模様」の意味)と「削り取られた崖」の象形と「長く流れる豊かでつややかな髪」の象形(「模様・飾り」の意味)から、崖から得た鉱物性顔料の意味を表し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、それを用いる「美青年」、「才徳のすぐれた男子」、「男子の美称」を意味する「彦」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1730.html


(「彦」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1730.htmlより)

なお「子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465595147.htmlについては触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

2021年10月17日

猿蟹合戦


「猿蟹合戦」は、

昔噺のひとつ、

で、成立は、

室町末期、

とされる(広辞苑)。基本の筋は、

猿の柿の種と自分の握り飯とを交換した蟹は柿の種をまく。柿の木に実を結ぶと猿は親切ごかしに樹上に登って熟したものは自分で食べ、青く固い柿を投げて蟹を殺す。蟹の子は臼、杵、栗、蜂、牛糞の助けで仇を討つ、

と(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%82%8B%E3%81%8B%E3%81%AB%E5%90%88%E6%88%A6・仝上)、

猿と蟹の柿の種と握り飯の交換、
蟹のまいた柿の種の急速な生長、
柿の実を独り占めにする猿、
青い柿を投げつけられた死ぬ蟹、
栗、蜂、牛の糞、臼などの助太刀による子蟹の仇討、

という型が、一般に知られている。室町末期から江戸初期にかけて成立した代表的な五つの昔話、

桃太郎、
かちかち山、
舌切り雀、
花咲爺(はなさかじじい)、

とされる(仝上)。



この昔話は二段からなり、前段は

動物の分配競争、

であり、後段は、

旅する動物、

である(日本大百科全書)とされ、「動物の分配競争」は、

動物昔話の重要な部分をなしており、

連鎖譚(たん)、

として東南アジアには顕著な例が分布している。「かちかち山」の前段も、この種の連鎖譚からの分化とされる(仝上)。後段の「旅する動物」は、

グリム兄弟の昔話集の「ブレーメンの音楽隊」の話など、ヨーロッパにも多い昔話である。「猿蟹合戦」とはやや異なった、卵を盗まれた小鳥が、仲間の協力で仇を討つ「雀の仇討」は、日本のほか、類話が古代インドの『パンチャタントラ』や中国大陸にもある。「猿蟹合戦」のように、動物の戦闘隊の型をとる「旅する動物」の類話は、東アジアから北アメリカの先住民に多い。主人公に動物などが協力するという型は、「桃太郎」の骨子とまったく同じで、「猿蟹合戦」の後段には、黍団子など「桃太郎」の要素との交流も現れている、

との解釈がある(仝上)。


(猿蟹合戦(滝沢馬琴作『燕石雑志(えんせきざっし) https://kihiminhamame.hatenablog.com/entry/2018/04/29/235700より)

この後半の、

蟹の子の仇討、

部分は、後世の改作とされ(日本伝奇伝説大辞典)、

その背後には、岩手県上閉伊郡に伝わる「雀の仇討」や広島県山県郡の「雀話」がある、

とされる(仝上)。「雀の仇討」は、

竹やぶに巣をつくっている雀の卵を山姥が取って食べ、親雀まで食べられてしまう。ひとつだけ藪に落ちた卵が成長して、稲穂を集めて団子を作り、とちの実、針、蟹、臼、牛、蜂、栗、糞、腐れ縄、百足などが団子をもらう約束で供に加わり、仇討を果たす、

というもの(仝上・日本昔話事典)、「雀話」は、討手は子供を鬼に食われた「親雀」になっており、

栗、蜂、臼、牛の糞、などと鬼退治に行く、

という(仝上)、「桃太郎」に近い話になっている。その他、

猿と蟇(ひき)の寄合田(よりあいだ)、
猿と蟹の寄合餅(よりあいもち)、

等々もある。これは、「猿と雉子」になったりするが、東北地方に分布し、

一緒に田を作る相談がまとまったのに、田打ち、田植え、稲刈りになると、猿が口実を設けて働かず、食べる時になって、自分に都合いいように分配し、猿蟹合戦のように合戦譚になっていく(日本昔話事典)。

前半の「柿争い」の部分は、

猿と蟹と柿、
猿と蟹と餅、

等々、独立して語られている(仝上)。「猿と蟹と柿」は、

伝承の少ない話型のひとつ、

とされ、

たいてい猿と蟹がむすびと柿の種を交換することに始まり、両者の形状の由来譚、

となっている(日本昔話事典)。

蟹のまいた種がすぐに大きくなって実がなると、猿がいいところだけ食べて蟹に青い実を投げつける、

というのは「猿蟹合戦」と同じだが、

蟹の甲羅に爪型があるのは柿をぶつけられた跡(鹿児島県甑島)、

とか、

熟れた柿を独り占めしている猿に、その袋に柿を一杯詰めて枯枝の先にぶら下げたらおもしろいだろうと言われ、猿がその通りにすると、枯枝が折れて落ちた袋を持って蟹は穴に逃げ込む。怒った猿が穴に尻を押しつけ、柿を戻さないと糞を垂れると脅す。その尻を蟹が挟んで離さない。猿は許してもらう代わりに尻の毛を蟹にやる。だから蟹の手には毛があり、猿のしりは赤い(福岡県八女郡)、

等々、由来譚となっている(日本伝奇伝説大辞典)。

喧嘩のもとになった物は、柿と餅だが、

合戦譚をもつ型、

合戦譚をもたない型、

の分布状況が異なり、

「もつ型」の場合、

餅が争いの原因となるのが、青森・岩手・秋田、
柿が争いの原因となるのが、東北・関東・北陸・山陽・四国、

「もたない型」の場合、

餅が争いの原因となるのが、東北・関東・関西・山陽・九州、
柿が争いの原因となるのが、本州・四国の全域、

とある(日本昔話事典)。

関敬吾は、形式論から、

仲間の一人が他を欺いて虐待するという二動物の闘争譚である前半と、爆発、突刺、潤滑、重圧の機能を持つ四種の援助者によって仇を討つ後半からこの昔話は成り立ち、中心モチーフは後半にある、

とみているのに対して、柳田国男は、内容と分布状況から、

前半を重視し、この昔話は古くは猿と蟇(ひき)が餅を争う昔話で、その後、蟇が蟹に変化したり、合戦部分を借入したりしたのであり、その時代は下る生成論を示し、もとは前半部分が独立した昔話ではなかったかと推定した、

とされる(仝上)。


(江戸時代の『猿蟹合戦絵巻』 古典の絵巻で「さるかに合戦」としての作品はほかに例がなく、珍しいといわれる https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%82%8B%E3%81%8B%E3%81%AB%E5%90%88%E6%88%A6より)


(江戸時代の『猿蟹合戦絵巻』 子蟹たちの敵討ちの場面。臼、蛇、蜂、荒布、包丁が集まっているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%82%8B%E3%81%8B%E3%81%AB%E5%90%88%E6%88%A6より)

「猿」(漢音エン、呉音オン)は、

会意兼形声。「犬+音符爰(エン ひっぱる)。木の枝を引っ張って木登りをするさる。猿は音符を袁(エン)にかえた、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(犭(犬)+袁(爰))。「耳を立てた犬」の象形と「ある物を上下から手をさしのべてひく」象形(「ひく」の意味)から、長い手で物を引き寄せてとる動物「さる(ましら)」を意味する「猿」という漢字が成り立ちました。「猿」は「猨」の略字です、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1815.html


(「猿」 https://kakijun.jp/page/1391200.htmlより)

「猿」に当てる漢字には、「猴」(漢音コウ、呉音グ)もあるが、これは、

「犬+音符侯(からだをかがめてうかがう)」。さるが、様子をうかがう姿から来た名称、

とある(漢字源)。「猿猴(えんこう)」で、「さる」なのだが、両者の区別はよく分からない。孫悟空の場合、通称は、

猴行者、

で、自らは、

美猴王(びこうおう)、

と名乗ったので、「猿」ではなく、「猴」である。「猴」は、

人に似て能く坐立す。顔と尻とには毛がなく赤し、尾短く、性躁にして動くことを好む、

とある(字源)が、猿のかしらは、

山多猴、不畏人、……投以果実、則猴王・猴夫人食畢、羣猴食其余(宋史・闍婆國傳)、

と、

猴王、

という(字源)。「猿」と「猴」は区別していたのかもしれない。



この他に、「さる」の意で、

體離朱之聰視、姿才捷于獼猿(曹植・蝉賦)、



獼猿(ビエン)、

や、「おおざる」の意で、

淋猴即獼猴(漢書・西域傳・註)、



獼猴、

という使い方をする、

獼(ビ)、

がある。「獼」自体、

おおざる、

の意で、

母猴、
淋猴、

ともいう(漢字源)、とある。日本でも、色葉字類抄(1177~81)に、

獼猴 みこう、びこう、

と載り(精選版日本国語大辞典)、

後生に此の獼猴の身を受けて、此の社の神と成るが故に(「霊異記(810~824)」、戦国策・斉策)、
海内一に帰すること三年、獼猴(みごう)の如くなる者天下を掠むこと二十四年、大凶変じて一元に帰す(「太平記(1368~79)」)
仏家には、人の心を猿にたとへられたり。六窓獼猴(ミゴウ)といふ事あり(仮名草子「東海道名所記(1659~61頃)」)、

等々と使われる(仝上)。

参考文献;
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:猿蟹合戦 昔噺

2021年10月16日

参宮松


「参宮松」というのは、

人間に代わって伊勢参りをした、

と伝えられる松の木をいう(日本伝奇伝説大辞典)らしい。

「参宮」は、

神社に参詣すること、

だが、

特に伊勢神宮に参拝すること、

を指す(広辞苑)。「伊勢参り」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482469437.htmlについては触れた。



実は、「參(参)」(漢音呉音サン・シン、呉音ソン)は、

象形。三つの玉のかんざしをきらめかせた女性の姿を描いたもの。のち彡印(三筋の模様)を加えた參の字となる。入り交じってちらちらする意を含む、

とある(漢字源)。他に、

形声。意符晶(厽は変わった形。ひかりかがやく)と、音符㐱(シム)→(サム)とから成る。星座(オリオン座の三つ星)の意を表す。借りて、三(サム みつ)の意に用いる。教育用漢字は省略形の俗字による、

とあり(角川新字源)、さらに、


(「參」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji706.htmlより)

会意兼形声文字です。「頭上に輝く三星」の象形と「豊かでつややかな髪を持つかんざしを付けた女性の象形」(「密度が高い」の意味)から、「三度(みたび)・加わる・参加する」を意味する「参」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji706.html

いずれにしても、「參」には、「参加」「参政」といった「まじわる」「加わる」、お目にかかる意の「参観」の意はあるが、

神社などに参る、

意や、「降参」の意の、

参る、

という意味はなく、わが国だけの使い方らしい。例えば、

神社にお参りに行く、

意の、

参詣、

は、

王嘉遷于倒獣山、公侯以下咸躬往参詣(晉書・藝術伝)、

というように、

某所に集まり到る、

意とあり(字源)、

参宮、

は、漢語にはない使い方ということになる。

さて、参宮松とされる松の木は、秋田県河辺郡雄和町水沢集落にある、樹高30メートル、樹齢四百年以上と言われた赤松、という(日本伝奇伝説大辞典)。

口碑によると、文政四年(1823)のある日、土崎港下四ツ屋から五人の一行が、松右衛門という人を尋ねてやってきた。しかし、水沢には、そういう人が居ない。その訳を尋ねると、昨年伊勢参りをした折、

「気品の高い白髪の老人の世話になり、無事に帰ることができた。その時に老人が、自分は水沢の松右衛門という者だが、秋の彼岸までには帰国するので一度遊びにくるようにといわれたので尋ねてきた」

という。この話を聞いた水沢の人には思い当たることがあった。水沢の守り神にしている松の老木が、昨年の春の彼岸ごろから急に勢いがなくなり、いろいろ手当てをしたが枯れ始めてしまった。しかし、秋の彼岸ごろから再び元気を取り戻した、ということがあった。水沢の人たちは、

「おそらく松右衛門とは老松の精でしょう。ひところ枯れだしたのは伊勢参りに出かけられたためでしょう」

と言った、とある(仝上)。で、この松を、

伊勢参りの松、
とか、
松右衛門の松、

と呼ぶようになった、という。「参宮松」というのは民話にもあるが、それは、男女二人連れが松の木だったという話で、少し趣が違うようであるhttp://hukumusume.com/douwa/pc/minwa/10/26a.htm

この水沢集落は、大永年間(1521~28年)に加賀から落ちのびてきた集落と言われ、総本家の伊藤宅にある「真宗大谷派同朋道場」とよばれる仏間を中心に、真宗の進行で結ばれ、死後も十二戸の集落全員が参宮松の根元にある、「総墓」に入る、とある(仝上)。「総墓」の墓石は、文政八年(1825)と刻まれているが、もともとは、松が墓標だった。そのことが参宮松の伝承を生んだのでは、とされている(仝上)。

現在の水沢集落は、

集落の東側に「八幡神社」を配し、西側に「総墓」と呼ばれる伊藤家の一族の共同の墓地があり、周囲から集落を守っている感じです、

とあるhttps://www.kensoudan.com/firu-naka-e/mizusawa2.htmlが、「参宮松」の伝承の記述は、見つからなかった。

参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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ラベル:参宮松

2021年10月15日

素っ破抜く


秘密や醜聞、不祥事などを突き止め、暴露するスクープ、

の意の、

「すっぱ抜く」の由来を、

すっぱ(忍び)が、思いがけないところに立ち入り、情報を掴むことに由来する、

と、あった(平山優『戦国のしのび』)。「すっぱぬく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/435604474.htmlで触れたように、それは俗説と思われるのだが、れっきとした著書でまで、そう言及されたのには少し驚く。改めて、もう一度整理してみたい。

「すっぱぬく」は、

素(っ)破抜く、
透(っ)波抜く、

等々と当てる(広辞苑・大言海・デジタル大辞泉・江戸語大辞典)。ふつう、

刀などをだしぬけに抜く、
突然人の隠し事などを暴く、
人の意表に出る、出し抜く、

という意味が載る(広辞苑)。この語源を、

忍者(スッパ)の思ひかけぬ所に立ち入るに譬へ云ふか(大言海・デジタル大辞泉・松屋筆記)、

とする説が少なくない。朝日新聞すらが、

ある日突然、不正などを明るみに出すことを「すっぱ抜く」と言います。記者のあいだでは、いわゆる特ダネを報じることを「抜く」と言い、「抜かれた」記者は急いで追っかけ取材をします。私たちが省略してしまうこの「すっぱ」、実は意外な意味があるのですが、ご存じでしょうか。
 正解は抜き足、差し足、忍び足……の、忍者です! 漢字では「素破」「透波」と書きます。日本国語大辞典の「素破抜(すっぱぬく)」の項には、「スッパ(忍者)が思いがけないところに立ち入るのにたとえていうか」と語源説が載っています。世界大百科事典によれば、忍者はほかにも「忍(しのび)」「かまり」「間諜」「乱波(らっぱ)」「隠密」などさまざまな呼ばれ方をしていたようです、

としているhttp://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/mukashino/2012020800002.htmlのである。さらには、「すっぱ抜く」の二つの意味を調整するためか、

(「すっぱ」は)戦国時代に武家に雇われた忍びの者のこと。「抜く」は刀を抜くこと。忍者は刃物をいきなり抜くことから、江戸時代にはいきなり刃物を抜く意で用いられていた。のちに、出し抜いて暴く意味へと転じ、新聞や雑誌などのメディアで多く用いられるようになった、

とする説明さえある(由来・語源辞典)。

しかし、「忍者」については、戦後は村山知義、白土三平、司馬遼太郎らの作品を通して「忍者」「忍びの者」が一般化したが、

江戸時代までは統一名称は無く地方により呼び方が異なり、「乱破(らっぱ)」「素破(すっぱ)」「水破(すっぱ)」「出抜(すっぱ)」)「透破(すっぱ、とっぱ)」「突破(とっぱ)」「伺見(うかがみ)」「奪口(だっこう)」「竊盗(しのび)」「草(くさ)」「軒猿」「郷導(きょうどう)」「郷談(きょうだん)」「物見」「間士(かんし)」「聞者役(ききものやく)」「歩き巫女」「屈(かまり)」「早道の者」「細作(さいさく)」、

等々があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8D%E8%80%85、とされる。室町末期の日葡辞書には、

Xinobi(忍び)、

と表記されており(仝上)、室町初期(14世紀中ごろ)の『太平記』でも、「忍び」が使われていて、

すっぱ、

という呼び方自体が、「忍び」の意味として一般的ではないようなのである。


(「忍び」 北斎漫画より https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8D%E8%80%85より)

「すっぱぬく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/435604474.htmlで触れたように、語源説には、

すっぱり+抜く、

と、秘密がすっぽりと筒抜けでわかる意、とする擬態語語源説と、

すっぱ(透波)+抜く、

で、忍者が秘密を嗅ぎつけて、うまく手に入れるという忍者語源説との、二つがある(日本語源広辞典・日本語源大辞典)。しかし、前にも触れたように、

透波抜き、

を語源としたというには、少なくとも、「透波」「素波」で、「忍者」を指しているという共通認識が世の中になければ、この言葉の含意は通じないのではないか。三田村鳶魚は、

素刃抜きの喧嘩、

という言い方をしていた(江戸ッ子)し、江戸語大辞典には、

すっぱぬき(素破抜)みんなで迯(にげ)たで持ったもの(明和七年(1770)「柳多留」)、

と、

だしぬけに刀を抜く意と、

言立ての芸にもならずすっぱ抜(文化十一年(1814)「俳諧觽」)、

と、人の秘密を暴露する意が載る。少なくとも、「すっぱぬく」は、ここでは、忍者の「すっぱ」とは無縁である。

どう考えても、三田村鳶魚が、

素刃、

を当てたように、意味的には、

いきなり刃物を抜く、

意で用いていたという方が妥当ではないだろうか。

「忍」http://ppnetwork.seesaa.net/article/416745079.htmlで触れたように、江戸時代の『武家名目抄』の職名に、透波の説明があり、

透波又称乱波、突破、……これ常に忍の役するものの名称にして一種の賤人なり。ただ忍(しのび)とのみよへる中には庶士の内より役せらるるもあれど、透波とよばるる種類は大かた野武士強盗などの中りよ ひ出されて扶持せらるるものなり。されば間者(間諜)、かまり夜討などには殊に便あるが故に、戦国のならひ、大名諸家何れもこれを養置しとみゆ。透波、よみてすつはとし、乱波これをらつはと云、さて其名儀は当時の諺に動静ととのはず首尾符合はせざるものをすつはといひ、事の騒がしく穏やかならぬをらつはといひしより起これるなるべし、今俗にとつは、すつは、又らつひなという詞のあるは、この遺言なり……、

とあり、

其名儀は当時の諺に動静ととのはず首尾符合はせざるものをすつはといひ、事の騒がしく穏やかならぬをらつはといひしより起これるなるべし、

とあり、まったく由来が異なり、しかも関東では乱波といい、甲斐より以西では透波と呼んだ、とある。「すっぱぬく」で使えるほど、「すっぱ」が人口に膾炙していたとは思えない。「すっぱ」に、「透波」「素波」の字を当てて、考え落ちのように、透波=忍者の行動が語源とこじつけた、というように思えてならない。

むしろ、擬音語、

すっぱり、

が、

鮮やかに思い切りよく切り離す様子。一刀で完全に断ち切り、傷口が見事に一直線になる感じ。江戸時代にすでに使われていた、

とあり(擬音語・擬態語辞典)、さらに、

物事や動作を次々と躊躇なく行う様子、

の意で、

すっぱすっぱ、

という擬音語もある。

すっぱ抜く、

は、この、

すっぱ、

すっぱり、

という擬音語由来と考えた方が自然ではないか。

「すっぱ抜く」は「すっぱのように人の秘密を暴く」ことだが、古い言葉では刀をスッパリ抜くことも「すっぱ抜く」といっていた。これは「すっぽ抜ける」と同じ意味で、「すっぱ抜く」の語源としてはこちらが本来のものらしい。これから忍者の「すっぱ」への連想が働いて「すっぱ抜く」という用法が生まれたとも考えられる、

とするhttp://www.jlogos.com/d046/12670503.htmlのが常識的な見解に思える。

ただ付言しておくと、「すっぱ」には、

透波、
素波、

と当て、忍びの意の他に、

水破、すっぱ、すり也(和漢通用集)、

とあり、

詐欺師、
すり、
かたり、

の意で使われたり、

よき物取とて、信州のすっぱと上州のわっぱども集まって(加沢記)、
すっぱ、盗人を云ふ也(俳諧・反故集)、

等々と、

盗賊、

の意でも使う(岩波古語辞典・大言海)意味では、人口に膾炙していたと思われる。室町末期の『日葡辞書』にも、

Suppa(素波、水破)、

は、

欺瞞、虚言、

の意で、

Suppana mono(素波・水破な者)、

は、

浮浪者、人をだます者、

の意とある。ただ、ここから、どう意味の外延を広げても、

忍び仕事、

をする意や、

虚言、

の意からは、真逆の、

突然、人の隠し事などを暴く、

意の、

すっぱ抜く、

が出てくる可能性は、僕は低いと見る。

なお、忍者やその作戦行動については、
盛本昌広『境界争いと戦国諜報戦』http://ppnetwork.seesaa.net/article/396352544.html
「忍」http://ppnetwork.seesaa.net/article/416745079.html
で触れた。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
三田村鳶魚『江戸ッ子』(Kindle版)
盛本昌広『境界争いと戦国諜報戦』(歴史新書y)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)

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2021年10月14日

うどんげ


大村由己の「惟任退治記」のラストに、

偈に曰く
四十九の夢一場、威名什麽(なんま)の存亡とか説かん
請ふ看よ火裡(かり)烏曇鉢(うどんばち)、吹作(すいさく)す梅花遍界香(こうば)し、

とある。「烏曇鉢(うどんばち)」とあるのは、

優曇鉢、

のことで、

梵語のउडुम्बर(ウドゥンバラ uumbara)音写で、

優曇婆羅、
烏曇跋羅、
優曇鉢華、

等々とも当てる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%92・百科事典マイペディア)。略して、

優曇、
憂曇、

といい、

瑞祥、

の意とあり(岩波古語辞典)、

霊瑞花、
空起花、
起空花、

などを意味するhttps://www.visiontimesjp.com/?p=4622

3000年に一度しか花を開かないというインド伝説上の植物、

とされ、

優曇華、
または、
憂曇華、

ともいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%92・百科事典マイペディア)。その花を、

うどんげばな、

という。

仏教では、

その花が開くとき、

金輪王が出現する、

といい、また、

如来が世に出現する、

と伝え(広辞苑)、経典の中では、

難値難遇(なんちなんぐう)、

つまり、

仏に会い難く、人身を受け難く、仏法を聞き難い、

という、

とてもめったに出会うことのできない稀な事柄や出来事を喩える話、

とされhttp://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=78、『大般若経』では、

如来に会うて妙法を聞くを得るは、希有なること優曇華の如し、

と説き、

『法華経』では、

仏に値(あ)いたてまつることを得ることの難きこと、優曇婆羅の華の如く、また、一眼の亀の浮木の孔(あな)に値うが如ければなり、

と説き、大海に住む百年に一度海面に頭を出す一眼の亀が、風に流されてきた一つの孔のある浮き木の孔の中にたまたま頭をつっこむという、

めったにない幸運で仏の教えにめぐりあうこと、

に喩えるhttp://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=78。『金光明経』には、

希有、希有、佛出於世、如優曇華時一現耳、

とある(大言海)。また、『法華文句』には、

優曇華は、霊瑞の意を示し、三千年に一度現れる。この花が現れたときに、金輪王(轉輪聖王)がこの世に現れる、

とあり、『慧琳音義』には、

この花は天上の花であり、 人間世界には存在しない。もし、如来佛がこの世に下り、金輪王がこの世に現れれば、その偉大な福徳力によって、初めてこの世に優曇華の花が見られる、

とあるhttps://www.visiontimesjp.com/?p=4622

 ある時、弟子たちが釈迦牟尼佛の説法を聞いた後、女弟子の蓮華色が「世尊。将来、轉輪聖王が下界に現れ伝法すると仰いましたが、人々はどのようにその時を知るのでしょうか?」と丁重に尋ねた。釈迦牟尼佛は「その時になると、優曇婆羅という花が広範囲に咲き、轉輪聖王がこの世で法を伝え、衆生を救い済度していることを示します」と明らかにした。釈迦牟尼佛はさらに「この花は人間界の花ではなく、轉輪聖王の一種の吉兆のようなものです。仏によってその象徴は異なりますが、この花は吉兆であり、この尊佛が下界のどこかに現れて説法し、衆生を済度することを予告するものです。あなた達は多くの善根功徳(ぜんごんくどく)を蓄えなさい。あなた達が聖王に出会うまで、私もあなた達に付き添います。あなた達が轉輪聖王の伝法と済度を得ることができれば、私も安心できます。」と続けた、

という(仝上)。

ただ、「うどんげ」が何かについては、いくつかの説がある。ひとつは、

クワ科イチジク属のフサナリイチジク(Ficus glomerata)、

が曇華の元になった植物ではないかともいわれている。

花がくぼんだ花軸の中にあって、外からは見えない。このためインドの伝説では、3000年に1度しか花を開かない、あるいは、如来や転輪聖王(てんりんじようおう)が出現した時だけ花を開くといわれた、

とある(世界大百科事典)。

インド原産で、ヒマラヤ、インド、セイロン島などに分布。葉は長さ一〇~一八センチメートルの先がとがった楕円形。花は小形で壺状の花托に包まれ、外からは見えない。果実は長さ約三センチメートルの倒卵形で食用となり、葉は家畜の飼料となる。仏教では、花が人の目に触れないため、咲いたときを瑞兆とみた、

ともある(精選版日本国語大辞典)。


(フサナリイチジク http://hanoirekishi.web.fc2.com/sung.htmlより)

また「うどんげ」は、

バショウの花、

の異称である。

芭蕉、

と当て、

ショウガ目/バショウ科/バショウ属、

で、

中国原産というバナナの仲間。樹木のようにも見えるが草、多年草である、

とある。


(バショウの花 https://mirusiru.jp/nature/flower/bashouより)

さらに、「うどんげ」は、

クサカゲロウの卵、

を指す。「クサカゲロウ」は、

草蜉蝣、
臭蜉蝣、

と当て、

アミメカゲロウ目(脈翅目)クサカゲロウ科、

に分類されるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%82%AB%E3%82%B2%E3%83%AD%E3%82%A6。一般的には、

成虫は黄緑色の体と水滴型で半透明の翅をもつ、

とある(仝上)。



「クサカゲロウ」が、

他の物に産み付けられた昆虫クサカゲロウの卵塊、

を、

優曇華、

いうhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%92のである。

二センチメートルくらいの白い糸状をした柄の先に丸い卵をつけたものを、一箇所にかためて産みつけるので、花のように見える。草木の枝や葉などのほか、家の天井などにも見られ、吉凶の前兆とされる、

という(精選版日本国語大辞典)。


(優曇華と呼ばれるクサカゲロウ科の卵 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%82%AB%E3%82%B2%E3%83%AD%E3%82%A6より)

「華」(漢音カ、呉音ゲ、ケ)は、

会意兼形声。于は、(ウ |線が=線につかえてまるく曲がったさま。それに植物の葉の垂れた形の垂を加えたのが鼻の原字。「艸+垂(たける)+音符于)で、くぼんで丸く曲がるの意を含む、

とある(漢字源)。


(「華」 https://kakijun.jp/page/1069200.htmlより)

別に、

会意形声。艸と、𠌶(クワ)(はな。・は省略形)とから成り、草木の美しい「はな」の意を表す、

とも(角川新字源)、


(「華」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8F%AFより)

象形。「はな」を象ったもので、「拝」の旁の形が元の形、音は「花」からの仮借、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8F%AF


(「華」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1431.htmlより)

会意兼形声文字です。「並び生えた草」の象形(「草」の意味)と「木の花や葉が長く垂れ下がる象形と弓のそりを正す道具の象形(「弓なりに曲がる」の意味)」(「垂れ曲がった草・木の花」の意味)から、「はな(花)」を意味する
「華」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1431.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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2021年10月13日

常陸坊海尊


「常陸坊海尊」は、

海存、

と当てたり(日本伝奇伝説大辞典)、

快賢、
荒尊、

とするものもある(世界大百科事典)。秋元松代の戯曲『常陸坊海尊』でも知られる、源義経の家臣である。


(常陸坊海尊(源義経公東下り絵巻) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9D%8A%E6%B5%B7%E5%B0%8Aより)


『源平盛衰記』巻四十二、延慶本『平家物語』第六末にその名が見え、前者ではもと叡山の僧であったとし、『義経記』では、もと園城寺の僧であったとする。義経の都落ちに同道して弁慶とともに大物(だいもつ)の浦で活躍し、衣川での義経の最期には、朝から物詣でに出て帰らず居合わせなかった、

とされる(仝上)が、比較的信頼のおける『吾妻鏡』には登場せず、確かな史料が存在しない。

『義経記』には、「頼朝謀反により義経奥州より出で給ふ事」の中で、

御曹司の郎党には西塔の武蔵坊、又園城寺法師の、尋ねて参りたる常陸坊、伊勢三郎、佐藤三郎継信、同四郎忠信これらを先として三百騎馬の腹筋馳せ切り、

とあるのが初見とされhttp://www.st.rim.or.jp/~success/kaison.html、頼朝との兄弟対面よりも前には、義経の郎党となっていたようだし、『源平盛衰記』の屋島の合戦の記事には、

武蔵坊・常陸坊、旧山法師にて究竟の長刀の上手にて、

と記され、『義経記』では、大物の浦で、海尊と弁慶は褐の直垂を纏い、弁慶はその上に黒革縅、海尊は黒糸縅の鎧を身につけ、小舟を駆って、敵船に突入、

するという活躍をしているhttps://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/7793ので、その武勇は確かだったと考えられるが、『義経記』では、たとえば、文治三年(1187)、義経一同が関所で関守に疑われ、弁慶の機転で何とか切り抜けることに成功するシーンが有名だが、常陸坊は、

先に出でたりけるが、後を顧みければ、判官と武蔵坊は未だ関の縁にぞ居給へり、

と、さっさと関所を出てしまっている等々、二、三ヶ所で、

誰よりも先に逃げようとする、

と記され、この時点で、

逃げ上手、
生き上手、

としての海尊像がすでに成立していた、とされる(仝上)。茨城の民話では、衣川の合戦に際し、

十一人の近臣と戦に加わらず近くの山寺に行っていた、

と伝わり、この件が、

義経一行が難題に直面した際に、常陸坊はいち早く姿を消す(常陸坊を初めとして残り十一人の者ども、今朝より近きあたりの山寺を拝みに出でけるが、そのまま帰らずして失せりにけり)とあるように、肝心な時には何時もどこかに身を隠してしまう、卑怯者といわれる所以、

としているhttps://nyorokolog.hatenablog.com/entry/2019/09/29/214838

衣川合戦を生き延びた「海尊」は、

仙人となり、あるいは人魚の肉などを食して不老長寿となり、400年位生きていた、

とも伝えられ(朝日日本歴史人物事典)、

富士山に入り、飴のようなものを食べて不死を得た話(柳田国男「東北文学の研究」)、
枸杞を常食したため長寿となった(林羅山『本朝神社考』)、

等々ともされる。『本朝神社考』(林羅山)には、

江戸時代初期に残夢という老人が、源平合戦や義経を見てきたように語っていたのを人々が海尊だと信じていた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9D%8A%E6%B5%B7%E5%B0%8Aし、天和三年(1683)に江戸から東海道を旅したという大森固庵らによる紀行『千草日記』では、3月14日の条に三保の松原に現われた残夢について綴られているhttps://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/7793

『義経記』の注釈書である『義経記評判』の頭注「ひたち坊」に姿を見せる残夢は、「義経は醜男、弁慶は美僧」などと、それまでの言い伝えとは違う義経主従の人相を語ったという。さらに自分は海尊だと名乗り、義経の最期の地となった衣川を訪れた際に、老翁から貰った赤い果物を食して長生になったと告げた、

とあり(仝上)、

『清悦物語』には、常陸坊海尊として、義経の従者であった清悦とともに登場する。海尊は清悦ら仲間4人で衣川に行き、山伏から「にんかん」という赤魚を振る舞われ、長生を得た、

とある(仝上)。

生存説は東北地方中心に多く、たとえば、大杉神社(茨城県稲敷市)では、

文治年間には巨体、紫髭、碧眼、鼻高という容貌の常陸坊海存(海尊)が登場し、大杉大明神の御神徳によって数々の奇跡を示したことから、海存は大杉大明神の眷属で、天狗であるとの信仰へと発展いたしました。当初は御眷属としては烏天狗のみとしておりましたが、後に陰陽一対として鼻高天狗、烏天狗の両天狗を御眷属とすることとなりました、

と、天狗になり、神と同一視されているhttps://nyorokolog.hatenablog.com/entry/2019/09/29/214838

「常陸坊海尊」については、別に、遍照寺(真岡市)の古寺誌に、

文治中、藤原泰衡追悼の軍功により賞与を仝地に賜り、故に奥州伊達の地に移る。これより先、常陸坊海尊なる者藤原秀衡の命を受け源義経の子、経若を懐にして中村に来り、念西に託す。念西、伊達に移るに由り常陸冠者為宗を伝とし中村家を為村に譲り、為宗我が子とし成人の後、中村を続かしむ。後、中村蔵人義宗と言ふ。又左衛門尉朝定と改む、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9D%8A%E6%B5%B7%E5%B0%8A、義経の子を託されたとされる。託された、念西とは、

平治年間(1159~60年)に中村城に入った中村小太郎朝宗の子・宗村を指す。宗村は剃髪して、念西(中村常陸入道念西)と名乗ったのだ。文治中の奥州合戦の軍功により奥州伊達の地を賜り、その地に移り、奥州伊達氏の祖となった。その際に念西は、子の為宗に中村家を譲った。義経の子・経若(のちに中村蔵人義宗、さらに左衛門尉朝定と改名)は、この為宗の子として成人し、家を譲られ、中村城主となったという、

とあるhttps://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/7793。ただ、『義経記』は、

義経の妻と3歳の男子と、合戦の7日前に生まれた女子の3人、

を、傅役の十郎権頭兼房が刺し殺し、義経の後を追ったとあり、『吾妻鏡』には、

義経の22歳の妻と4歳の女子が、義経に殉じた、

と記されている(仝上)。

柳田国男は、海尊について、

「義経記成長の事情を窺い知る端緒として、最初に我々の心づく特色の一つは、いよいよ泰衡が背き和泉夫婦が忠死を遂げて、主従わずかに一三人で、寄手の三万余騎と激戦するほどの大切な日に、あいにくその朝から近きあたりの山寺を拝みにでて籠城の間に合わず、そのまま還って来なかった者が十一人あったという点である。その十一人の大部分は名が伝わらぬが、ただ一人だけ知れているのは、常陸坊海尊であった。それがその通りの歴史であったとすれば、是非もないが、人の口からだんだん大きくなった物語としては、かような挿話は見たところ別に必要もないので、もし必ずそう語るべきであったとすれば、別に隠れた理由が何かあったはずである」

と書き(「東北文学の研究」)、足利時代の下半期に、

常陸坊海尊が、まだ生きているという風説が諸国、

にあり、

この噂が一箇所一口ではないために、かえって始末が悪い、

と、義経記の海尊像が一人歩きを始めた、と記しているhttp://www.st.rim.or.jp/~success/kaison.html

参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:常陸坊海尊